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記事一覧

日露戦争(7)-秋山真之(3)

日露戦争の時、敵艦隊がいる旅順港を封鎖した時、敵艦隊が前日まで見えていたのに、朝になり、突然、敵艦隊が見えなくなりました。「封鎖を破って脱出したのでは?」と大騒ぎになりましたが、統率力、判断力、決断力ともに優れていた連合艦隊司令長官の『東郷平八郎』は、「敵は、脱出していない。内にいる。」と言って、平然としていました。そして、調査の結果、敵艦隊は、夜間に秘かに停泊地を変えたのですが、内港にいることが...

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日露戦争(8)

日本は、ロシアに比べて、かなり戦力不足でしたが、優秀な人物が多くいて、「技術立国:日本」の名前の通り、知力、技術力、科学力で補いました。作戦計画の全てを担当した『児玉源太郎』は、視野が広く判断力に優れていて、日本軍の参謀育成の教官として、招かれたドイツ陸軍参謀将校の『クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケ』ルから、才覚を高く評価されていて、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に『児玉』が居る限り...

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日露戦争(9)

1905年、『秋山』が夢で暗示を受けた対馬海峡を、哨戒中だった「信濃丸」が、相手に気づかれることなく、バルチック艦隊の病院船「アリヨール」を発見しました。ちなみに、艦隊を発見を打電した「信濃丸」は、当初、シアトル航路用貨客船だったそうですが、日露戦争のため、仮装巡洋艦となったそうです。日露戦争後、貨客船に復帰したそうです。ちなみに、『永井荷風』が渡米した時や、『孫文』が台湾から日本に亡命する時に、...

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日露戦争(10)

日露戦争時、日本艦隊は、海軍の『宮原二郎』が発明した、蒸気タービンエンジンの動力の源の「宮原式水管汽罐(ボイラー)」と言う当時、世界最速のエンジンを取り付けていました。「宮原式水管汽罐」は、価格が、当時の世界標準の半分以下で、給水・掃除が容易で、耐久性に富み、燃費がよく、小型でありながら高馬力であるというものでした。日露戦争の勝利には、「宮原式水管汽罐」により、日本海軍の機動性が、良くなったことも...

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日露戦争(11)-ロジェストヴェンスキー(2)

旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」で指揮をとっていた司令長官『ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー』は、戦いが始まってから約30分で、『東郷平八郎』司令長官が率いる日本艦隊の集中砲火を浴び、司令長官『ロジェストヴェンスキー』は、右肩骨折、右足踵の動脈切断という重傷を負い、全身血まみれで、顎髭も半分焼けて、ボロボロになりました。駆逐艦「ベドーヴイ」は、旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」に近づ...

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日露戦争(12)-ロジェストヴェンスキー(3)

日露戦争開戦当初、『塚本克熊』中尉は、古い掃海艇で、機雷の排除を行っていました。しかし、その艦が触雷して、沈没したので、旗艦「三笠」に収容されたそうです。「三笠」で、『塚本』は、『東郷』と顔見知りになり、日本では、『東郷』しか持っていない、艦の据付望遠鏡を超える高倍率のドイツのカール・ツァイス社の双眼鏡に、興味があると話したところ、『東郷』は、こころよく双眼鏡を、貸してくれました。そして、『塚本』...

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日露戦争(13)-ロジェストヴェンスキー(4)

捕虜となった『ロジェストヴェンスキー』は、佐世保の海軍病院に入院しました。1905年6月、『東郷』が、軍服ではなく、白いシャツという平服姿で見舞いに訪れました。病室に入ると、『ロジェストヴェンスキー』を見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて、状態を気づかいながら、日頃は、極端な寡黙で知られる『東郷』が、周囲の将校が驚くほど、饒舌に話し始めました。「我々軍人が、たとえ負けたから...

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日露戦争(14)-ロジェストヴェンスキー(5)

『ロジェストヴェンスキー』は、ロシアに戻ってすぐに、大将に昇進しました。その後、1906年に、日露戦争に関する軍法会議が開かれました。その時、『ロジェストヴェンスキー』は、「敗戦の責任は自分にある。自分と『ネボガトフ』だけを訴追すればいい。」と発言しましたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、少将に降格されただけでした。その代わり、『ロジェストヴェンスキー』が倒れた後、全軍の指揮を...

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日露戦争(20)

1904年、日露戦争が始まるとすぐに、ロシア正教会は国を挙げて、日本に天変地異が起こるように、呪詛したそうです。しかし、日本に、天変地異が起きず、ロシアは、敗戦しました。その後、1923年、関東大震災が発生し、日本は、甚大な被害を受けました。そして、ロシアの宗教家たちや物理学者たちは、集まって、長い間話し合った結果、祈祷してから19年後に関東大震災が起きたので「神は、我々のいる場所から、19光年離...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(1)

TV『水戸黄門』のモデル『徳川光圀』は、水戸藩の第2代藩主ですが、水戸徳川家の初代『徳川頼房』の三男でした。『徳川光圀』の母は、『谷重則』の娘『久子(お久)(久昌院)』ですが、正妻でもなく、正式な側室ではなかったそうです。『お久』の母親が、大奥女中を務めていたので、一緒に連れられて、城に出入りするうちに、『徳川頼房』に気に入られて、『徳川光圀』の兄『松平頼重』を懐妊しました。当時、水戸徳川家では、正...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(2)

水戸徳川家で、尾張と紀州の嫡男が生まれた後の、1628年に生まれた3男『徳川光圀』を、長男を差し置いて、嫡男としたそうです。何故、『徳川光圀』が、嫡男とされたのかと言うと、別段、優秀だったからと言うのでは、ありませんでした。1632年に、『徳川光圀』を預かる『三木之次』が、『徳川頼房』に、「『長丸(千代松)(徳川光圀)』は、殿(『徳川頼房』)の子なので、認知して下さい。」と願い出たそうです。実は、...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(3)

『徳川光圀』の父『徳川頼房』は、若年の頃、異様な衣服や刀を纏い、傍若無人な振る舞いをしていたので、そのままにすると、幕府が、譴責を加えると通達がありました。そのため、『徳川頼房』の守役『中山信吉』が、一命を懸けて、諌言したので、真面目になったそうです。その父の遺伝か、『徳川光圀』は、若い時は、やんちゃだったそうです。例えば、処刑された罪人の重い生首を、引きずりまわしたり、洪水直後の墨田川を泳いだり...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(4)

将軍は、後継ぎをつくるのも仕事だったので、将軍『徳川家光』は、1623年の19歳で、正室『鷹司孝子』と結婚しましたが、結婚当初から、その仲は非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無で、ほぼ軟禁生活を強いて、冷遇したそうです。将軍『徳川家光』33歳の時まで、子供が出来なかったそうです。でも、なかなか子供が出来なかったのは、仲が悪いと言うだけではなく、理由がありました。戦国時代、女性は不浄なので、出陣の前...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(5)

『春日局』は、『お振』という娘に、男装させて、『徳川家光』の所に行かせました。すると、 1637年、将軍『徳川家光』が33歳の時、最初の子『千代姫』が、産まれました。 しかし、『お振』は、すぐに死亡して、男子を生むことが出来ませんでした。ある時、紫衣に包まれ少年のように清々しい公家『六条有純』の娘が、伊勢内宮社・慶光院17代院主となったので、挨拶に来た時、『徳川家光』は、見とれていたそうです。そのた...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(1)

「鬼平犯科帳」の主人公『鬼平』こと『長谷川平蔵宣以(銕三郎)(銕次郎)』は、1745年に東京で生まれた実在の人物です。『鬼平(長谷川平蔵宣以)』の父『長谷川平蔵宣雄』は、優秀な人物で、江戸で、「火付盗賊改」をしていました。1772年、死者約1万4千人と言われている、江戸三大大火の1つ「明和の大火」と呼ばれる大火事が起きました。そして、父『長谷川平蔵宣雄』は、その犯人『無頼漢長五郎(真秀)』を捕縛し...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(2)

『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、関東から奥州にかけて、悪行の限りを尽くし、歯向かう者は切り殺し、数百箇所も夜盗した広域強盗団で、剣術・神道流の達人で、約800人の配下がいた『神道徳次郎(真刀徳次郎)(神稲小僧)』一味を、一網打尽にし、処刑したり、徳川家の家紋「葵の御紋」をつけた提灯を掲げて、商家に押込強盗を行い、押込先の婦女を必ず強姦するという凶悪な手口で、江戸中を荒らしまわった『桐野谷芳之助(葵小...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(3)

『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、「罪人を捕縛するだけでなく、罪人を生み出さないようにする事が大切。」と考え、犯罪者に手に職を与え、訓練する更正施設「石川島人足寄場」を、幕府に献言しました。幕府はこれを認め、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、人足寄場の責任者も兼任することとなりました。そして、人足寄場では、技術だけでなく、道徳教育も行なわれ、人足寄場の設置以来、犯罪者の数は減ったそうです。そして、『鬼平(...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(4)

1846年、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』以来、長谷川家は、同じ家に住んでいましたが、孫『長谷川平蔵宣昭』の時、引越ししたそうです。ちなみに、長谷川家の当主は、代々『長谷川平蔵』という通称を受け継いだそうです。孫『長谷川平蔵宣昭』は、4代目だそうです。そして、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』が住んでいた屋敷に、新しく引越して来たのはなんと、時代劇では、『鬼平』と並んで有名な『遠山の金さん(遠山金四郎景元)』...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(5)

『遠山の金さん』こと、『遠山金四郎景元』は、1793年生まれの実在の人物です。『遠山の金さん(遠山金四郎景元)』の父『遠山金四郎景晋』は、『永井筑前守直令』の四男で、幕府の「昌平坂学問所」を、トップで卒業した秀才でした。でも、永井家の四男なので、永井家の家督を継げないので、後継ぎのいなかった名家の『遠山景好』の養子になりました。しかし、養子入りし、家督嫁いだ後、養父『遠山景好』に実子『遠山景善』が...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(1)

ものすごくウン(運)がついているのは、『ティモシー・デクスター』です。以前書いた、ちょっとしたことで、インスリンや抗癌剤の世紀の発見から外れた『クラーク・ノーブル』は、自分の不運に、嘆きましたが、1747年に生まれのアメリカ人『ティモシー・デクスター』は、驚くほど反対にものすごく強運の持ち主です。『デクスター』は、貧困生まれだったので、学校へは、ほとんど行けず、8歳のころから農場で働いたそうです。...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(2)

知人が、『デクスター』を馬鹿にしようと思い、暖かい国では、柄のついた寝床用あんか(warming pan)が、不足しているので、売れると言いました。それを信じて、西インド諸島に売りに行ったそうです。陰で、人々は、暑い地方なので、売れるわけはないと笑っていましたが、船長が機転をきかせて、それを糖蜜工場用の柄杓として販売したら、大売れしたそうです。そして、知人が、からかおうとして、『デクスター』に、「南太平洋諸...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(3)

知人が、『デクスター』を馬鹿にしようと思い、「聖書を東インド諸島に輸出したら、儲かるよ。」と言いました。実は、聖書は広くいきわたっていたので、通常は、売れないと思い、からかうために、嘘を言ったのですが、東インド諸島の宣教師が、大量の聖書を必要としていたので、再びうまい具合に行きました。知人が、『デクスター』を馬鹿にするため、西インド諸島では、ペットショップが無いので、猫が売れると言いました。『デク...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(4)

何故か、鯨の髭を間違って、ものすごく、大量に買いだめしてしまいました。でも、しばらくたっても、鯨の髭が売れる気配もなく、さすがに、その時は、『デクスター』は、失敗したと思い、落ち込みました。でも、『デクスター』は、ウン(運)を持っています。しばらくすると、世界中で、コルセットが流行し、その材料として、大売れしたそうです。そして、(続く)...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(5)

知人が、『デクスター』に、「沢山の石炭を、イギリスのニューキャッスルで、売ったら儲かる。」と言ったそうです。すると、『デクスター』は、その言葉を信じて、実行したそうです。実は、その知人は、調子に乗っている『デクスター』を、笑いものにしようとして、騙したのでした。実は、ニューキャッスルは、イングランド北東部にある港町で、近郊に大きな炭田があり、石炭は余るほどあるので、「無駄なことをする。」、「バカな...

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驚くほどウンがついている男『ティモシー・デクスター』(6)

ある時、自分が死んだら、人々がどう反応するかを見たいため、自分の死を偽装したそうです。すると、3千人位が葬式に出席したそうです。そして、物陰から、人々の反応を見たそうです。すると、自分が死んで、悲しいという場面なのに、妻が泣かないで、友人とばかり話しているので、『デクスター』は、我慢が出来ずに、怒り狂って、物陰から飛び出てきて、妻を杖で叩きまくったそうです。その後、50歳になり、思いつきで、自叙伝「...

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古代版-「フーテンの寅」こと『車 寅次郎』?

1969年、8月27日、映画「男はつらいよ」の第1作が公開されたことに由来して、8月27日は『寅さんの日』だそうです。映画「男はつらいよ」全48作品は、1人の俳優が、演じた最も長い映画シリーズとして、ギネスブックに、登録されています。動物園勤務の時、映画「男はつらいよ」が好きだったので、その登場人物から名前をもらって、ベンガルトラに、『寅次郎』と『マドンナ』と名付けて、飼育していました。ちなみに、...

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戦争を避けるために必要な政治家の資質

政治家を選ぶときには、慎重に選ばないと大変な事になります。自由民主党の『杉田水脈』衆議院議員は、「生産性がない人に、税金を投入することが果たしていいのかどうか?」と言って、炎上しました。その昔、『杉田水脈』衆議院議員と同じ事を言った人々がいます。それは、ナチスです。ナチスは、子供を産まないし、戦うことが出来ない無用の存在と言って、同性愛の人たちを、強制収容所に入れました。まずは、何故、資質が無いど...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(1)-最初の特攻隊隊長『関行男』大尉

活字離れで、本屋がどんどん少なくなっていますが、残念な事です。今年の読書の夏は沢山の本を読みました。自分の先祖が治めていた猫尾城のある黒木出身で、応援している直木賞作家『安部龍太郎』の歴史の本は、研究熱心で、資料を詳しく細かい所まで調べ上げているので、話の題材や内容は、面白いのですが、例えば、場面により『石田三成』は、『治部』、『佐吉』そして、『大谷吉嗣』は、『刑部』、『紀之介』と、登場人物の名前...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(2)-『中島正』少佐と『岡嶋清熊』少佐と『菅野直』大尉

1944年7月に201空飛行長に就任した『中島正』少佐は、特攻の恒常化で、次第に思いやりを欠く言動が、増えていったそうです。『中島正』少佐は、特攻に関して、「辛いとか、苦しいとかいうような気持ではなく、説明しがたいある種の感動だった。でも、俺は死なない。神風特攻隊の記録を後世に残すため内地に帰る。」と常に言っていたそうです。ちなみに、戦後、「神風特別攻撃隊の記録」などの特攻隊を美化する本を書きまし...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(3)-陸軍史上最悪の軍人『冨永恭次』中将

『東條英機』の腰巾着というあだ名を持ち、航空特別攻撃隊の出撃命令と敵前逃亡疑惑など、陸軍史上最悪の軍人だと批判のある第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を出し、その後、計62回、約400機の特攻を命令しました。ちなみに、第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、中央勤務が長かったので、実戦経験が乏しく、航空戦の知識は皆無だったのですが、空軍司令官になったそうです...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(1)

天皇陛下が初めて特攻の話を聞かれた時、「そのようにまで、せねばならなかったか。まことに遺憾である。しかし、よくやった。哀悼の情にたえぬ。」と言われたそうです。日本陸軍第1回の特攻隊「万朶隊」に選ばれ、9回特攻出撃して、9回生きて帰ってきた特攻隊員がいました。その、特攻隊員の名前は、当時21歳の『佐々木友次』伍長。陸軍航空隊で最初に結成された特攻隊の「万朶隊」は、敵艦船攻撃のための爆撃訓練を行う優秀...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(2)

1回目の特攻に出た『佐々木友次』伍長は、レイテ湾を飛行中に敵艦を発見し、高度5千mから急降下し、高度800mから敵艦めがけて爆弾を投下しましたが、爆弾は、少しズレて海面に落ち、少しだけ損傷を与えました。じっとしていると、撃ち落される危険性があるので、すぐに現場を離れました。すると、豪雨に見舞われたので、以前、『岩本益臣』大尉に教えてもらっていた「緊急避難地」のミンダナオ島の田んぼに、着陸したそうで...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(3)

5回目の特攻からもどると、休み時間も無く、6回目の特攻の命令が出ました。『佐々木友次』伍長は、何かの感染症(マラリア)に感染したらしく、熱っぽく、体調が悪かったので、「少し寝て、体力が回復にしてから、特攻させて欲しい。」と言うと、参謀長『猿渡篤孝』は、「絶対にダメだ!寝ている時間など無い!ただちに、どんな船でも良いから、見つけ次第、突っ込め!今度帰ったら承知せんぞ!」と、たいへんな剣幕で、まくした...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(4)

その後、『佐々木友次』伍長は、フィリピンのカンルーバン捕虜収容所で、知り合いの読売新聞の『鈴木英次』記者から、「お前、殺されることになっていたのを知っているか?第四航空軍は、大本営発表で、死んで者が生きていては困るから、第4航空軍司令官『冨永恭次』が銃殺命令を出し、第四飛行団の『猿渡篤孝』大佐が、お前を、秘密裏に殺すために、狙撃隊を準備していたんだぞ。でも、地上勤務の兵隊が怒って、特攻隊の狙撃命令...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(5)-最後の特攻『宇垣纏』海軍中将

最後の特攻を行ったのは、プライドが高いと言われている第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将です。以前、第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将が、特攻隊を見送っていた時、特攻隊員から、「本日の攻撃において、爆弾を百%命中させる自信があります。命中させた場合、生還しても、よろしいですか?」と聞かれた時、第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将は、「まかりならぬ。」と即座に大声で答えたそうです。そして、敗戦が明...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(6)-撃墜王『坂井三郎』と『水木しげる』

戦時中は、政府は、特攻に関して、志願者が多く、士気が上がっていると、国民には言っていました。しかし、公式認定撃墜数28機(自称撃墜数64機)の撃墜王『坂井三郎』は、戦後、特攻作戦に関して聞かれた時、「特攻で士気があがったと発表していたが、実は大嘘。絶対死ぬという作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった。」と言っています。ちなみに、『坂井三郎』は、上空で優雅にサイダーを飲もうと、機内にサイ...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(1)

日本軍は、元々、兵部省で一体でしたが、1870年に陸海軍が分離され、1872年に陸軍省、海軍省が設置されました。分離の原因は、薩摩と長州の藩閥争いだったそうです。陸軍は、長州の『大村益次郎』が基礎を築き、その後は、長州の『山県有朋』が引き継ぎました。フランス、ドイツ陸軍を参考に、軍備を拡充しました。海軍は、薩摩藩の『川村純義』と『勝海舟』が基礎を築き、その後、薩摩藩の『西郷従道』、薩摩藩の『山本権...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(2)

1924年に、給油艦に使う予定だった予算を流用し、全長145メートル、排水量1万5820トンの日本海軍初の給糧艦「間宮」が、竣工されました。当初は、巨大な冷蔵庫で新鮮な食料品を運ぶ事が、主な任務でした。そのため、巨大な冷蔵庫、冷凍庫設備があり、肉、魚、生野菜など、1万8千人の3週間分の食料が、貯蔵出来たそうです。その上、艦内で豆腐や納豆、こんにゃく、油揚げ、麩やパンなどの加工食品を、製造する施設も...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(3)

日本海軍の給糧艦「間宮」は、炭酸ガス、水、シロップを加えれば、簡単に製造出来るラムネを製造する機械が導入されました。そして、次に、饅頭などを作る機械一式が導入され、羊羹など餡子を使った和菓子が製造可能となり、1931年より、パンなどの一般的な食料だけではなく、ラムネ、饅頭、モナカ、ようかん、アイスクリーム、ケーキ、タピオカプリンなどが生産されるようになったそうです。そして、「間宮」が停泊中には、海...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(4)

「間宮」は、補給艦としての任務以外にも、もう一つ重要な任務がありました。「間宮」は、大型の調理施設だけではなく、無線監査艦としての任務があり、大型の強力な通信設備が搭載されていました。この通信設備は、敵艦の通信を傍受するのではなく、味方の海軍間での通信のやり取りを,監視するためのものでした。「間宮」では、各艦で行われている通信をチェックし、不適切な発言や、通信の無駄遣いの監視、通信使の技量を調べる...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(1)『武田竹司』海軍少尉と餅

中学生の時の夏休み、友人Kと大阪から与論島に行く事にしたのですが、その時、フェリー「さんふらわあ」で、まずは、友人Kの親戚のいる鹿児島に寄りました。その時、時間があったので、池田湖の巨大水棲生物のUMAのイッシーを見に行き、そこにあった食堂で、池田湖に生息する全長2m、体重20kgになるオオウナギを見学し、UMAについて、友人Kと話が盛り上がりました。また、南九州市(旧:知覧町)にあった特攻隊の遺品の展...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(3)お母さんへ

陸軍特攻第七十七振武隊『相花信夫』少尉(18歳)の遺書1945年、5月4日、沖縄海上で特攻戦死【母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました我6歳の時より育て下されし母継母とは言え世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく慈しみ育て下されし母 有難い母 尊い母俺は幸福であった ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう母上お許し下さい...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(4)絵と空と日本を愛した少年飛行兵

『山崎祐則』海軍少年飛行兵(19歳)1945年3月21日、九州東南沖で特攻戦死『山崎祐則』海軍少年飛行兵は、絵と空と日本を愛しました。『山崎祐則』海軍少年飛行兵は、「軍隊では手紙と食事がいちばん楽しい」とか、特攻に行くまでの生活を、イラストに描いて、家に送ったそうです。朝、号令がかかると、はね起きて、ハンモックをしまう。洗い場のコンクリートの床では、裸足なので、冬は手足が冷たい。うどんやしるこなど...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(5)婚約者へ

陸軍第20振武隊『穴沢(穴澤)利夫』少尉(23歳)1945年、4月12日、沖縄海上で特攻戦死『穴沢利夫』少尉は、故郷の福島県那麻郡に児童図書館をつくるために、中央大学に進学し、東京医科歯科大学の図書館で、司書としてバイトしていた所に、後輩たちが実習に来ていたのですが、そのうちの1人『孫田智恵子』さんと、付き合うようになったそうです。そして、付き合いが順調に進み、東京の『孫田智恵子』さんの実家を訪ね...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(6)わが子へ

『植村眞久』海軍大尉(25歳) の遺書1944年、10月26日、 レイテ島東方で特攻戦死【素子へ 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、お風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さんや佳代叔母様に私のことをよくお聞きなさい。 素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、考えたのです。 ...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(7)靖国神社

神風特別攻撃隊『小川清』海軍中尉(22歳)は、1945年5月11日、南西諸島沖で、「ワレ突入ス」との無線の後、アメリカ空母「バンカー・ヒル」に突入し、大破、炎上し、死者396人、負傷者264人を出しました。特攻により炎上するアメリカ空母「バンカー・ヒル」バンカー・ヒルの乗組員だった『ロバート・ショック』が、「バンカー・ヒル」の処理を行なっている時、炎上せずに残っていた『小川清』の遺品を見つけ、持ち...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-イエローファイター『菅野直』

最初の特攻隊のNo1の候補だった『菅野直』は、第306飛行隊長で、総撃墜数は計72機の撃墜王として有名で、愛機「343-A-15」号機(紫電改)の機体には、敵を、味方機ではなく、自分の方にひきつけるため、機体に黄色のラインが描かれていたので、米軍パイロット達の間では、『イエローファイター』と呼ばれ、怖れられたそうです。ちなみに、訓練生の時、着陸事故の危険から着陸禁止になっていた滑走路に着陸し、機体が...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した人々

特攻命令を、拒否し続けた人たちもいます。第100飛行団の航空総監部教育課長『秋山紋次郎』大佐は、「参謀本部の二課(作戦課)が特攻やれとは何事だ。」と特攻には強行に反対したそうです。 第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長『岡嶋清熊』少佐は、特攻には断固反対で、国賊と言われたそうです。陸軍飛行第62戦隊戦隊長『石橋輝志』少佐は、大本営作戦課で第62戦隊を特攻部隊に、編成訓練するよう要請されると、「部下...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(1)

『美濃部正』少佐が、夜襲戦法を思いついたのは、マラリア治療をしていた時でした。『美濃部正』少佐は、1942年7月より、小松島空分隊長を拝命し、教官として、海軍水上機搭乗員の練習生に、水上機の実戦運用の訓練をしていました。1943年10月より、ソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊の飛行隊長に、着任しましたが、1944年1月、マラリアに感染し、野戦病院に入院しました。そこで、『美濃部正』が、教...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(2)

軍令部作戦課は、第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』に、『美濃部正』の夜襲隊を、手伝うように言われたので、人員や機材などに関して、便宜を図りました。『美濃部正』は、使い慣れた「月光」を希望しましたが、すでに生産が中止されて、十分な数が揃わないことが判明しました。次に、新鋭陸上攻撃機「銀河」を希望しましたが、20機ぐらいしかありませんでした。その後、『美濃部正』は、「彗星」が、大量に倉庫にあり、誰も使...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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