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日本の外交手腕(3)-日本の外交をぶっ潰せ!-田中眞紀子(1)

2001年、自民党総裁選挙で、

最大派閥の『橋本龍太郎』の勝利が、

有力視され、

自民党『小泉純一郎』は、

劣勢だったのが、

「既存の自民党を、ぶっ壊して、

新しい自民党に、作り直す!」、

「私の政策を批判する者は、

すべて抵抗勢力。」と、熱弁を振るい、

また、
大衆に人気のあった
『田中眞紀子』の応援のおかげで、

街頭演説では、
数万の観衆が押し寄せ、

閉塞した状況に、
変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、

勝利し、

2001年4月26日、
内閣総理大臣に、なれました。

そして、
内閣総理大臣『小泉純一郎』が、

組閣に着手しようとした時、

『田中眞紀子』は、

外務省機密費流用事件に、関心があったので、

「恩を、忘れていないでしょうね。

私は、外務大臣以外は、考えていない。

それが、叶わない時は、
議員バッチを、外しますよ。

そしたら、
世間は、大変な騒ぎに、なりますよ。」と、言いました。

そして、2001年、
内閣総理大臣『小泉純一郎』は、

向き不向きは考えず、

大衆受けを狙い、

言われるまま、

日本の女性では、初めての外務大臣に、

『田中眞紀子』を、任命しました。

そして、
外務省機密費流用事件後の職員の処分が、終了し、

外務省のダメージが、まだ残っている所に、

『田中眞紀子』が、外務大臣に、就任しました。

そして、『田中眞紀子』は、

「外務省は、伏魔殿!

私が、それを、変える!」と、公言しました。

ワイドショーが、『田中眞紀子』の破天荒さを、

面白がり、煽りに煽った結果、

「眞紀子ブーム」が起き、

世論は、『田中眞紀子』を、

圧倒的に、支持しました。

しかし、後日、

マスコミが知らないところで、

『田中眞紀子』は、外務省に、

戦後最大級のダメージを与えた事が、

外務省秘密文書「官房勤務雑感」で、

明らかになりました。

それによると、
『田中眞紀子』の関心は、

ボロボロになった外務省の綱紀粛正のみでした。

しかし、
肝心の外交に関しての知識は、まったくなく、

外交関係には、まったく無関心だったそうです。

そして、
『田中眞紀子』は、外務省の綱紀粛正、
組織の改革のため、

勝手に、外務省人事に手を、つけようとしたそうです。

そのため、外務省官房長『飯村豊』が、

「外務省機密費流用事件の処分は、

外務省幹部20人以上が、

監督責任などを問われて、

懲戒減給などの処分を受けて、

すでに、終了しています。

そして、
幹部人事に関しては、

官邸の了承を得る必要があります。」と、言うと、

『田中眞紀子』外務大臣は、

「そんなの、関係ない!

官邸の了承なんて、必要ない。 

再処分が、必要!」と、怒りまくりながら、

処分の終わっている職員や、
気に食わない人物や、歴代次官の名前の横に、

勝手に、「解任」などと書き込んで、

官僚たちの処分を、

勝手に決めるという、暴挙に出ました。

外務省官房長『飯村豊』が、

「大臣、法律に従って、

おやりになる必要が、あります。」と言うと、

『田中眞紀子』外務大臣は、

「あんたは、本当に、うるさいわね!

人間には、
家族と使用人と敵の3種類しかない。

お前は、単なる私の使用人だ。

もう、お前は、不要だ!

これからは、私の部屋に、入ってきて、
指図をするな!

とっとと出て行け!」と、大声で、叫んだそうです。

そして、それ以後、外務省官房長『飯村豊』は、

前代未聞の大臣室の出入り禁止と、
なったそうです。

『田中眞紀子』外務大臣は、

その後も、誰かれ構わず、

外務官僚たちに、罵詈雑言を浴びせかけ、

気に入らない職員を排除し、

さまざまな問題を、起こしていたそうです。

一連の事で、
イライラいていた『田中眞紀子』外務大臣は、

就任直後、

親日家の『リチャード・リー・アーミテージ』
アメリカ 国務副長官との会談を、

気が向かないと言って、ドタキャンしました。

これは、同盟国を侮辱するような事で、
外務大臣ならば、あってはならない蛮行でした。

『田中眞紀子』外務大臣の
公設第1秘書『穂苅英嗣』の話によると、

「とにかく、指示は、強引で無茶苦茶でした。

言う事は、コロコロと変わるし、

ドタキャンは、日常茶飯でした。

ちょっとしたことでも、錯乱し、

錯乱すると、記憶が、まったく、なくなりました。

ダダをこねる時は、
子供みたいに、足をバタバタさせていました。

『田中角栄』は、娘『田中眞紀子』の事を、

軍鶏(シャモ)と呼び、

20分以上、一緒にいるには、根性がいる、

娘婿の『田中直紀』は、大したものだ!と、
言っていました。

事務所は、フェンスで、囲まれていましたが、

それは、『田中眞紀子』の怒号が、
周囲に、聞こえないようにするためでした。

そして、
アジア人への差別意識があり、

香港を訪問した時に、

面会予定者について、説明した時、

村の助役みたいな奴らに、
いちいち会えるもんですか!と叫びました。

その時は、なだめすかしたりして、
何とかしのぎましたが、

本当に、困りました。」と、言っています。

『田中角栄』を、恩人と公言し、

初期の頃から、応援し、

田中家について、一番知っていると言われている、

元十日町市長『諸里正典』が、

記者から、

『田中眞紀子』について、聞かれた時、

「『田中眞紀子』は、

『田中角栄』先生とは、

まったく違い、

協調性は、全くなく、

精神的バランスは、とても悪く、

独りよがりで、

人間的欠陥が、かなり多く、

とにかく、破天荒で、メチャクチャな人だ。

でも、自分にとって、
恩人の『田中角栄』先生の娘さんなので、

なにがあっても、

『田中眞紀子』を、

ずっと、応援をするつもりです。」と、言っています。

内閣総理大臣『小泉純一郎』は、

自民党総裁選挙で、

「既存の自民党をぶっ壊す!」と言いましたが、

『田中眞紀子』外務大臣の、
外務省での破天荒ぶりを聞き、

このままでは、
外務省が、壊れると考え、頭を抱えました。

しかし、
『田中眞紀子』には、恩もあるし、

自分が、外務大臣に任命したので、

直接、注意しにくかったので、

『飯島勲』内閣総理大臣秘書官に、

注意しに行くように命じました。

そして、
『飯島勲』内閣総理大臣秘書官は、
毅然とした態度で、向かい合い、

『田中眞紀子』外務大臣が、

反論しようとするのを制止し、

一喝し、態度を改めるように言いました。

ちなみに、それ以降、『飯島勲』は、
じゃじゃ馬の『田中眞紀子』を、
一喝した凄腕の内閣総理大臣秘書官と、
評価されるようになりました。

記者から、

『飯島勲』内閣総理大臣秘書官が、

一喝した『田中眞紀子』について、聞かれた時、

「『田中眞紀子』は、
自民党総裁選挙の応援演説の時から、
問題があった。

自分から、仙台、福岡に行くと言って約束しながら、

『三塚博』が来るなら、大嫌いなので、行かない。とか、

『山﨑拓』が来るなら、嫌いなので、行かない。など、
何回もドタキャンされました。

そういえば、
私とは、あまり付き合いのなかった『中曽根弘文』から、

『田中眞紀子』に、何度も頭を下げて、
群馬の街頭演説に来てもらう事を、
約束していたのに、

たった今、キャンセルしてきた。

準備もしていたので、
どうしたらよいのでしょうか?と、
悲壮な声で電話が、
かかってきたこともあります。」と、言いました。

すると、記者は、

『飯島勲』内閣総理大臣秘書官に、

「内閣総理大臣『小泉純一郎』は、

何故、そのような人を、
外務大臣にしたのですか?」と聞くと、

「内閣総理大臣『小泉純一郎』には、

一応、変な癖のある人間だとは、伝えていましたが、

あれほど、ひどいとは、思いませんでした。」と、答えました。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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