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現在、良好な関係でも、将来も保証するわけでは、ない-明智光秀、ロシア(旧ソビエト連邦)

1582年6月2日に起きた「本能寺の変」は、

『明智光秀』が、

主君『織田信長』を殺害した、有名な事件です。

元々、『明智光秀』は、才能もあり、

『織田信長』に、気に入られて、重用されていました。

そして、
現在の丹波(京都府中部、兵庫県北東部、
大阪府北部)攻めの時、

『明智光秀』が、大活躍したので、

『織田信長』は、

「丹波の国での『明智光秀』の働きは、

天下の面目を施した。」と大絶賛し、

1580年に、
丹波一国(約29万石)を加増しました。

そして、『明智光秀』の石高は、
最終的に、全て合計すれば、
約240万石(約270億円以上)となったそうです。

しかし、
天下統一に最重要な、
京阪神地域(京都、大阪、兵庫)を、

守備するという重責を担う事になった『明智光秀』ですが、

軽卒の身から、織田軍トップの実力者になったので、

元々の家臣が、いなかったので、
様々な出自を持つ人々で、家臣団が構成されていました。

そのため、統制が取れないと、

烏合の衆となる可能性があるので、

「本能寺の変」の1年前の1581年6月2日、

自らの家臣団に対して、

「武者が備え場において、
不必要な大声を出すことや雑談を禁じる。

攻め口では、下知に従うように。

兵は配置と法度に従うように。

戦闘が始まっても皆下知を守れ。

もしそれに従わない者がいれば、
誰でも、すぐに成敗する。

眼前に敵があっても命令を伝え、返答せよ。

たとえその場に踏みとどまって、
比類のない戦果を挙げても、
法度を背いたこととする。

陣払いは禁止する。」など、

兵としての心構えや、軍の決まり事の、

全18カ条からなる「明智光秀家中軍法」を、

発布しました。

そして、「明智光秀家中軍法」は、

織田軍では、唯一現存している軍法だそうです。

明智光秀軍法(御霊神社蔵・福知山市)2
福知山市御霊神社所蔵

その1年後、
1582年6月2日に起きた「本能寺の変」で、
『明智光秀』が、『織田信長』を殺害しましたが、

その動機は、

一番古い説では、

『織田信長』に近侍する官僚として仕えた、
『太田牛一』が、

1610年前後に書いた『太田牛一雑記』には、

「信長の幾度とない温厚も忘れて、
自分の欲望を為そうと、
無情にも、信長親子を討ち果たした。」という、

野望説が書かれています。

そして、辱められたり、親が、『織田信長』のせいで、
殺されたという話などの怨恨説。

『織田信長』の苛烈すぎる性格のため、
筆頭家老として重宝された『佐久間信盛』が、
突然失脚、追放され、不遇となったりなど、
同僚たちを見ていて、
将来が不安になったという説。

「本能寺の変」を起こした動機は、
50説以上あり、
定説がなく、謎に包まれています。

でも、
「明智光秀家中軍法」の最後に、

「軍法を定め置くうえは、実戦経験者はなお精進を怠らず、
未熟の者はよく理解せよ。

軍律もよくわきまえず、武勇も功績もあげない者は、

織田家の穀つぶしで、盗人同然だ。

日々精進している者からは、
軽蔑・嘲笑の対象にもされるであろう。

奮起して抜群の功績をあげたならば、

必ず『織田信長』様に報告し、

重く取り立てるであろうから、

この家中軍法をよく守ってほしい。

瓦や小石のごとく沈んでいた境遇の自分だったが、

恩人『織田信長』様が、自分を取り立てくれた上、

多くの軍勢を任せてくれるようになった。」と、

『明智光秀』は、『織田信長』に、恩義を感じています。

ちなみに、『明智光秀』の出自に関しては、

美濃源氏の土岐氏の系譜に連なる、
『土岐明智二郎下野守頼兼』が、

1342年、美濃国可児郡に、明智城を築城し、
1556年、『斎藤義龍』の攻撃を受け、落城したのですが、

その、明智城の『明智光綱』の息子という話もありますが、

これらは、『明智光秀』が、死亡した1582年7月2日から、

約100年後の、1688年頃に書かれた、

『明智光秀』が、主人公の物語「明智軍記」(作者不明)に、

書かれていた事なので、

史料価値は低いとされています。

ちなみに、
戦国史研究の権威で、
國學院大學文学部教授と大正大学教授を兼任していた
『高柳光寿』は、

「『明智光秀』の父の名前は、不明です。

『明智光秀』は、土岐の庶流だったと考えられるが、
文献に出て来るほどの家柄ではなく、

『豊臣秀吉』の様な微賤ではなかったとしても、

とにかく低い身分から、
身を起こしたということは、確かです。」と言っています。

ちなみに、
『明智光秀』は、
無名だった所から、歴史の表舞台に登場して、

「本能寺の変」までの期間は、約14年間だそうです。

ちなみに、6月2日は、「本能寺の変」にちなんで、
「裏切りの日」という記念日だそうです。

そして、
主君『織田信長』から信頼され、

『明智光秀』は、恩義を感じると書いていた

1年後には、殺害。

現在、良好な関係でも、
将来も保証するわけでは、ないという事です。

そして、日本にとって、最大の裏切りは、

現在、ウクライナ侵攻している、

ロシア(旧ソビエト連邦)です。

ロシアとナチス・ドイツは、
1939年8月23日に、
独ソ不可侵条約を締結していましたが、

1939年9月1日に、
第二次世界大戦が始まりました。

ソビエト連邦は、
ドイツのソビエト連邦への侵攻計画を予見し、

日本は、アメリカに対抗するため、

1941年4月13日、ソビエト連邦と日本は、

それぞれの領土の保全と相互不可侵を約束した、
日ソ中立条約を締結しました。

有効期間は5年間で、

有効期間満了1年前までに、

両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は、

自動的に、5年間延長されるというものでした。

そして、
ソビエト連邦の独裁者『ヨシフ・スターリン』は、
周囲の人間に対する不信感が強かったので、

1937年より、国内を大規模な弾圧を行い、
秘密警察を使って、共産党幹部や官僚、
『ミハイル・トハチェフスキー』元帥のような優秀な軍人たちを、

次々と逮捕し、3万人以上を処刑したので、
ソビエト連邦の軍隊は、弱体化したそうです。

1941年6月22日に、ナチス・ドイツは、

ソビエト連邦の軍事力が弱まったので、
チャンスと考え、

ソビエト連邦に侵攻し(バルバロッサ作戦)、

独ソ不可侵条約は、破棄されました。

ちなみに、
1941年から1945年にかけて起きた独ソ戦は、

ナチスドイツの独裁者『アドルフ・ヒトラー』と
ソビエト連邦の独裁者『ヨシフ・スターリン』の、
直接対決となった戦争で、

2人とも、戦争の専門家ではないのに、
軍の動きに口を出すことが、多くあり、

軍事的合理性に反する作戦が多かったのですが、

独裁者だけに、誰も反対意見が言えなかったので、

3千万人以上の無用な犠牲者が出たので、

人類史上最大規模の地上戦と言われています。

独ソ戦のレニングラード包囲戦では、

ドイツが、
約900日近くにわたって包囲していたので、

レニングラードでは、食糧の不足が起き、

道端の死体の肉を食べる者が出たり、

人肉を売る店まで出現し、

子供の肉は柔らかくて、特に美味しかったとされ、
子供の誘拐が多発したそうです。

独ソ戦は、バルバロッサ作戦やレニングラード包囲戦、

ウクライナを中心とした地域の
ハリコフ攻防戦、キエフの戦いなどが有名で、

ウォーゲームの題材として、良く取り上げられています。

自分も、独ソ戦のウォーゲームを持っているので、
学生時代に、ウォーゲーム専門誌「タクテクス」、
「シミュレイター」や戦史などを読んで、
戦略や戦術について、研究していました。

その後、ドイツの旗色が悪くなり、

日本の敗戦が、濃厚になりました。

すると、
1945年4月5日に、

ソビエト連邦は、敵のドイツが弱くなり、
後顧の憂いがなくなったので、

突然、日本政府に対して、

「1946年4月24日に、期間満了する日ソ中立条約を、

延長しない。」と、通達しました。

そして、
戦争が終結しそうなのを知ったソビエト連邦は、

早くしないと日本の領土が得られないと考え、

日ソ中立条約が、1946年4月24日まで、
有効な期間なのに、

駐ソ日本大使館の電話通信回線を、
全て切断した上で、

1945年8月8日、突如、日本に、宣戦を布告し、

8月9日の午前零時には、
日本の領土の南樺太・千島列島に侵攻しました。

そして、
ロシア(旧ソビエト連邦)は、
現在まで、北方領土を占領し続けています。

国家間の取り決めを平気で破るような、

信頼できないロシアの『ウラジーミル・プーチン』大統領は、

現在、「北方領土は、あらゆる手段を使って、確実に防衛する。」と、
言っています。

『ウラジーミル・プーチン』大統領は、
ナチス・ドイツを批判していました。

でも、最悪なのは、
第二次世界大戦の時の様な緊張状態ではなく、

平和を満喫していた所から、

現在、ロシア(旧ソビエト連邦)は、

歴史的なつながりが深いウクライナで、
ナチス・ドイツと同じ事をしています。

ウクライナ人の体験談を読むと、

ロシア兵は、ウクライナで、
子供が、逃げられないように、膝を撃ったり、

「この戦争を一生忘れないようにしてやる。」と言って、

子どもの目の前で、人を射殺しているそうです。

確かに、ものすごいトラウマとなります。

悲しいことに、これらの事から分かる事は、

現在の良好な関係でも、

将来も保証するわけでは、ないと言う事です。

ちなみに、
変わると言えば、時代により、歌も変わります。

偉人、だけど、変態の『ジャン=ジャック・ルソー』が、
1752年に、オペラ「村の占い師」のために作曲し、

現在、日本の童謡として、親しまれている
「むすんでひらいて」は、

日本の軍国色が濃かった明治時代には、
戦意高揚のための、歌詞がつけられ、

「戦闘歌」として、歌われていたそうです。
(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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