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感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(5)

1857年、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

19歳年下の『マーリア・ヴァイデンホーファー』と結婚し、

5人の子が生まれました。

しかし、子供達は、生まれて間もなく死亡したり、
賭博の末に背負った借金のため自殺したりなど、
不幸に見舞われたそうです。

そして、1865年頃より、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
多方面からの激しい攻撃を受け、

その先端すぎる消毒説に、
ついていけなかった医師たちと関係が悪化し、

人々と疎遠となっていきました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
ストレスから、常にイラつくようになり、

精神的に疲労し、嫌な事を忘れようとして、
酒をたくさん飲む様になりました。

そして、次第に家族とも疎遠となり、

売春宿に、入り浸りになったりなど、
すさんだ生活を送るようになりました。

その頃、医師たちは、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』を、

野放しにしていては、

医師が大量殺人を行ってきたことを、

認める事になるので、

それを避けたいという事で、相談していました。

そして、
1865年、7月30日、
同僚だった医師『ヤーノシュ・バラッサ』や、
ウィーンの皮膚病学者『フェルディナンド・
リッター・フォン・ヘブラー』ら数名の医師たちが、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』に、

「君の説は、確かに正しい。

君の考え方を、

医師たちに広げるための広報機関を、

病院内に設置したので、来て欲しい。」と言って、

ウィーンの精神病院に、呼び出しました。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、

ウィーンの精神病院に入ると、

周囲の異様な雰囲気に気づき、

逃げようとしたら、

数人の警備員から、ものすごく殴打されて、

気を失ったまま、拘束衣を着せられ、

暗闇の独房に監禁されました。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
精神病の治療と言われて、

冷水を浴びせられたり、

下剤を飲まされたりしました。

そして、2週間後の1865年8月13日、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

消毒が大切と言っていたのに、

殴打された時の右手の傷が化膿していたのに、

消毒されずにいたので、

傷が悪化し、敗血症で、死亡しました。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、ウィーンで埋葬されましたが、

葬式に出席したのは、わずか数人だったそうです。

ちなみに、
後日、『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の遺骨は
ハンガリーへ移されたそうです。

ハンガリー医学、自然科学協会では、

その年に死去した会員を称える記念講演を、
開催するという規定がありましたが、

その年の記念講演で、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の業績は、
無視され、言及されませんでした。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の死亡後、

ペシュト大学の産科教授の後任は、
『ヤーノシュ・ディーシャー』が任じられましたが、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の消毒法を無視したので、

院内感染による患者の死亡率は、

6倍以上に、跳ね上がったそうです。

しかし、周囲の医師たちは、
それに対して、関心が無かったそうです。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
消毒法の重要性を言い続けたので、

最終的には、
保守的だった医学界により、殺されました。

確かに、『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、

「死体粒子が、人間を死体に変える。」と言っても、

見えない生き物(微生物)が、病気原因と言っても、

バカバカしいと言って、

当時の人々は、信じる事は、出来なかったと思います。

ちなみに、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、

接触感染の予防として、手洗いを提唱しましたが、

存命中はその方法論が理解されず、
排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた事から、

通説に反する新たな知識に触れた人間が、

自分の常識から説明できない事実を受け入れがたいと考え、

それを反射的に拒絶し理解を拒む現象を、

「センメルヴェイス反射」と言うそうです。

そして、
1889年、『ルイ・パスツール』が、

「『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、

消し去ろうとしていた殺し屋とは、

連鎖球菌である。」と発表しました。

その後、消毒法を確立した、イギリスのグラスゴー大学、
エディンバラ大学の外科教授『ジョゼフ・リスター』が、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の論文を読み、

消毒法の創始者として、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』を、
称え続けたということです。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

普通に行われている消毒法、感染予防の先駆者とされ、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
「院内感染予防の父」、「母親たちの救い主」と呼ばれています。

でも、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の塩素消毒法が、

科学的な裏付けを得て、正しく理解されるようになったのは、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の死後、

約20年たってからのことでした。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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