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感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(4)

18世紀末に起きたフランス革命の影響を受け、

19世紀初頭から、ヨーロッパ各地で、

革命の嵐が吹き荒れていました。

当時、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の
故郷ハンガリーは、オーストリア帝国に支配されていたので、

オーストリア帝国からの独立運動が、行われていました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の兄弟も、
ハンガリーの独立運動に参加し、処罰されていました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の上司だった、

『ヨハン・クライン』教授は、保守的なオーストリア人で、

ハンガリーやチェコなどの、

オーストリア帝国内の革命運動を、憂慮していました。

そのため、『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、

ハンガリー人だったので、

『ヨハン・クライン』教授は、嫌うようになりました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の任期更新の時、

『カール・ブラウン』が、名乗りを上げ、
ポストを争うことになりました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
任期延長を申請し、

医学部内の大部分の支持を得ていたので、

通常であれば、任期延長が認められるのですが、

『ヨハン・クライン』教授は、オーストリア人の『カール・ブラウン』を、
選びました。

そのため、1849年3月20日の任期切れを持って、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
ウィーン総合病院第一産院を、退職しました。

ちなみに、『カール・ブラウン』は、教科書を書いたのですが、

その中で、産褥熱の原因を、

妊娠そのものの問題や尿毒症、
子宮拡大による他臓器への圧迫、
感情的なトラウマ、食事、恐怖、
空気感染などの30項目を挙げていましたが、

その中で死体からの感染に触れているのは、
1項目だけでした。

でも、
『カール・ブラウン』が、
第一医院に勤務した1849年から1853年の間、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の塩素消毒法を、
習慣として、実践していたので、

死亡率は低いままだったそうです。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

「ウィーンの医学界とは、意見が合わない。」と言って、

1950年、故郷のハンガリーに、帰りました。

当時、
ハンガリーでは、
オーストリア帝国軍からの独立運動を、
目指していましたが、

指導者たちが、処刑されたりなどして、
鎮圧され、国内が乱れていました。

1851年、『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
聖ロクス病院という小さな病院の名誉医院長に、就任しました。

そして、
1857年から、6年間、聖ロクス病院に勤務しました。

聖ロクス病院でも、産褥熱が横行し、
多くの妊婦が死亡していましたが、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、
消毒を実行した所、0.85%に、死亡率が低下しました。

このように、明らかな実績を出しましたが、

やはり、ハンガリーの産科医たちには、

「産褥熱は、患者の腸の不衛生の結果だ!」と言って、
受け入れられませんでした。

ドイツの医師や自然科学者が集まった学会で、

大部分の発表者は、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の理論を、
否定したそうです。

特に、当時の病理学会最高の権威と言われている、
『ルドルフ・フィルヒョウ』も否定しました。

そして、
ペシュト大学の産科教授『エデ・フローリアーン・ビルイ』も、

「産褥熱は、患者の腸の不衛生の結果だ。」と言って、

生涯、『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』を、
認めていませんでした。

プラハの産科医『アウグスト・ブライスキ』は、

「『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

産科を、科学的考えるのではなく、神学の世界と考えている。

簡単に言えば、世間知らずのバカ! 」と、罵倒しています。

コペンハーゲン産科医院長『カール・エドヴァルド・マリウス・レヴィ』は、

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、
言っている「死体粒子」の科学的な検証が、
出来ていないし、

死亡率の低下を言うなら、

千例以上を見て言うなら分かるが、

症例数が、話にならないほど少ない。」と酷評しました。

ペシュト大学の産科教授『エデ・フローリアーン・ビルイ』が、
死去すると、

1855年、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
ペシュト大学の産科教授の後任に名乗りを上げました。

すると、
かつて、ウィーン総合病院第一産院の地位を奪った、
宿敵『カール・ブラウン』が、ウィーン総合病院第一産院を退職して、
名乗りを上げて来ました。

そして、宿敵『カール・ブラウン』は、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』を、
上回る支持を集めました。

しかし、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』が、
ペシュト大学の産科教授となりました。

これは、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』の業績が、
認められたからではなく、

実は、『カール・ブラウン』は、
ハンガリー語を、話せなかったからでした。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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