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感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(1)

現在、全世界がコロナウイルス感染症で、
大変な事になり、

消毒が大切と言われていますが、

世界で初めて消毒の大切さに気が付いた医師は

消毒の大切さを訴え続けたため、

悲惨な人生をたどる事になりました。

18世紀に、産業革命がおこり、
蒸気機関車が出来て、鉄道を走ったりなど、
科学が一気に進み、
魔法や迷信の類は、影を潜めました。

しかし、
見えない物(微生物)が、人に感染して、

病気になるとは、信じられていなかったので、

19世紀後半に、
ドイツの「近代細菌学の開祖」『ロベルト・コッホ』が、

微生物から病気になる事を証明するまでは、

消毒が必要と言う人に対して、

魔法の呪文や迷信と同じと言って、

荒唐無稽で、
バカバカしい考えられ、笑われていました。

ちなみに、
『ロベルト・コッホ』に師事していた『北里柴三郎』先生は、

「現在の日本には、
世界の誰からも信用される研究を成し遂げた者が、
一人もいない。

学問や知識をただ学ぶだけで良いと思う日本人が多いが、
それだけでは、学問に対する姿勢の欠点となる。

私は、世界の学者に後れをとらないよう努力し、

日本を世界と肩を並べる水準にしたい。」と言って、

ドイツの『ロベルト・コッホ』の研究所で、

寝食を忘れて研究に没頭したそうです。

そして、『北里柴三郎』先生は、どんな微生物の研究の時でも、

『ロベルト・コッホ』の研究所で、実践的に学んで、身につけた、

「コッホの原則」に従って、物事を判断したそうです。

ちなみに、「コッホの原則」とは、

〇ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること。

〇その微生物を分離できること。

〇分離した微生物を、
感受性のある動物に感染させて、同じ病気を起こせること。

〇そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること。

そして、
『北里柴三郎』先生は、努力の甲斐があって、

世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、
破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させ、

菌体を少量ずつ動物に注射しながら、
血清中に抗体を生み出す画期的な「血清療法」を開発し、

世界中で、称賛されました。

『ロベルト・コッホ』は、

「『北里柴三郎』は、

破傷風を治療する免疫血清を作り上げ、

世界で初の伝染病に対する血清療法を創始した。

その後、色々な伝染病の血清療法が、
開発されたが、

全て、『北里柴三郎』の研究に、
導かれたものだ。」と絶賛しています。

そして、
『北里柴三郎』は、日本に戻り、

感染症を研究する「北里研究所」を設立し、

多くの人命を救いました。

そして、『北里柴三郎』の薫陶を受けた門人たちは、
世界で活躍し、日本の医学を、
世界に通用する水準に押し上げました。

そして、「北里研究所」創立50周年記念事業で、

自分の母校「北里大学」が、設立されました。

『北里柴三郎』先生が、偉大な微生物学者なので、

自分が大学院に進学した時は、

微生物教室と伝染病教室に所属し、

ウイルスと細菌について、研究していました。

ちなみに、細菌に対して、
どの抗生剤が微生物に効くかを、
調べるため(薬剤感受性試験)に、

動物病院では、外注するのが一般的ですが、

自分は、微生物教室と伝染病教室で、
細菌を増殖させる時に、お馴染みだったので、

お気に入りの恒温培養器を購入し、

自分の病院で、院内細菌培養で、
薬剤感受性試験を行っています。

そのため、微生物には、興味があるので、
今回は、その話をします。

19世紀中頃まで、産婦は、

子宮に細菌感染する産褥熱で、
死亡する事が多かったそうです。

産褥熱で死亡した女性の遺体を解剖すると、
多岐にわたる症状が確認できたので、

産褥熱は、1つの病気ではなく、

未定義の様々な病気の総称と考えられていました。

ちなみに、
当時の病気の治療と言えば、瀉血が主流でした。

当時の医学書では、あらゆる病気は、
体内のバランスが崩れて起こるものと説明され、

体のバランスの崩れ方を見極めるのが、
医者の仕事でした。

そして、
自宅分娩や助産婦が行う一般的な分娩と比べ、

病院での分娩は、死ぬことが多いという評判が流れ、

病院で産むよりは、
自分の家の方が、マシと言う人が多かったそうです。

当時、ウィーン総合病院には、2つの産科があり、
第一産科と第二産科がありました。

そして、明らかに、第一産科の死亡率が高く、

妊婦たちは、評判の悪い第一産科に、
回されないよう、

医師たちの足にすがりついて頼んで、
第二産科に行きたがったそうです。

ウィーン総合病院の

第一産科では、死亡率が10%、

第二産科では、死亡率が4%未満と、

産婦の死亡率に、異常な差がある事がありました。

そのため、
1818年産まれのドイツ系ハンガリー人の

医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

自分の所属するウィーン総合病院産科の第一産科が、

第二産科よりはるかに高い死亡率を出していたので、
悩んでいました。

ちなみに、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

当初、ウィーン大学で、法学部で学んでいたのですが、
医学に興味が移り、医学部へ転向したそうです。

1844年に、医学博士号をとり、

内科を目指しましたが、

空きが無かったので、産科を専門にしたそうです。

そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
調査、研究を始めました。

第一産科は、医学生の教育のための医院で、

第二産科は、産科専門医だけが勤務していました。

人間の過密具合でいうと、
第二産科の方が、混みあっていました。

『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、

「学生とプロの産科医の診断や治療法の違い?」と考え、

調査しましたが、大きな違いは、ありませんでいた。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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