感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(1)
- 2022/04/06
- 05:05
大変な事になり、
消毒が大切と言われていますが、
世界で初めて消毒の大切さに気が付いた医師は
消毒の大切さを訴え続けたため、
悲惨な人生をたどる事になりました。
18世紀に、産業革命がおこり、
蒸気機関車が出来て、鉄道を走ったりなど、
科学が一気に進み、
魔法や迷信の類は、影を潜めました。
しかし、
見えない物(微生物)が、人に感染して、
病気になるとは、信じられていなかったので、
19世紀後半に、
ドイツの「近代細菌学の開祖」『ロベルト・コッホ』が、
微生物から病気になる事を証明するまでは、
消毒が必要と言う人に対して、
魔法の呪文や迷信と同じと言って、
荒唐無稽で、
バカバカしい考えられ、笑われていました。
ちなみに、
『ロベルト・コッホ』に師事していた『北里柴三郎』先生は、
「現在の日本には、
世界の誰からも信用される研究を成し遂げた者が、
一人もいない。
学問や知識をただ学ぶだけで良いと思う日本人が多いが、
それだけでは、学問に対する姿勢の欠点となる。
私は、世界の学者に後れをとらないよう努力し、
日本を世界と肩を並べる水準にしたい。」と言って、
ドイツの『ロベルト・コッホ』の研究所で、
寝食を忘れて研究に没頭したそうです。
そして、『北里柴三郎』先生は、どんな微生物の研究の時でも、
『ロベルト・コッホ』の研究所で、実践的に学んで、身につけた、
「コッホの原則」に従って、物事を判断したそうです。
ちなみに、「コッホの原則」とは、
〇ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること。
〇その微生物を分離できること。
〇分離した微生物を、
感受性のある動物に感染させて、同じ病気を起こせること。
〇そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること。
そして、
『北里柴三郎』先生は、努力の甲斐があって、
世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、
破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させ、
菌体を少量ずつ動物に注射しながら、
血清中に抗体を生み出す画期的な「血清療法」を開発し、
世界中で、称賛されました。
『ロベルト・コッホ』は、
「『北里柴三郎』は、
破傷風を治療する免疫血清を作り上げ、
世界で初の伝染病に対する血清療法を創始した。
その後、色々な伝染病の血清療法が、
開発されたが、
全て、『北里柴三郎』の研究に、
導かれたものだ。」と絶賛しています。
そして、
『北里柴三郎』は、日本に戻り、
感染症を研究する「北里研究所」を設立し、
多くの人命を救いました。
そして、『北里柴三郎』の薫陶を受けた門人たちは、
世界で活躍し、日本の医学を、
世界に通用する水準に押し上げました。
そして、「北里研究所」創立50周年記念事業で、
自分の母校「北里大学」が、設立されました。
『北里柴三郎』先生が、偉大な微生物学者なので、
自分が大学院に進学した時は、
微生物教室と伝染病教室に所属し、
ウイルスと細菌について、研究していました。
ちなみに、細菌に対して、
どの抗生剤が微生物に効くかを、
調べるため(薬剤感受性試験)に、
動物病院では、外注するのが一般的ですが、
自分は、微生物教室と伝染病教室で、
細菌を増殖させる時に、お馴染みだったので、
お気に入りの恒温培養器を購入し、
自分の病院で、院内細菌培養で、
薬剤感受性試験を行っています。
そのため、微生物には、興味があるので、
今回は、その話をします。
19世紀中頃まで、産婦は、
子宮に細菌感染する産褥熱で、
死亡する事が多かったそうです。
産褥熱で死亡した女性の遺体を解剖すると、
多岐にわたる症状が確認できたので、
産褥熱は、1つの病気ではなく、
未定義の様々な病気の総称と考えられていました。
ちなみに、
当時の病気の治療と言えば、瀉血が主流でした。
当時の医学書では、あらゆる病気は、
体内のバランスが崩れて起こるものと説明され、
体のバランスの崩れ方を見極めるのが、
医者の仕事でした。
そして、
自宅分娩や助産婦が行う一般的な分娩と比べ、
病院での分娩は、死ぬことが多いという評判が流れ、
病院で産むよりは、
自分の家の方が、マシと言う人が多かったそうです。
当時、ウィーン総合病院には、2つの産科があり、
第一産科と第二産科がありました。
そして、明らかに、第一産科の死亡率が高く、
妊婦たちは、評判の悪い第一産科に、
回されないよう、
医師たちの足にすがりついて頼んで、
第二産科に行きたがったそうです。
ウィーン総合病院の
第一産科では、死亡率が10%、
第二産科では、死亡率が4%未満と、
産婦の死亡率に、異常な差がある事がありました。
そのため、
1818年産まれのドイツ系ハンガリー人の
医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
自分の所属するウィーン総合病院産科の第一産科が、
第二産科よりはるかに高い死亡率を出していたので、
悩んでいました。
ちなみに、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
当初、ウィーン大学で、法学部で学んでいたのですが、
医学に興味が移り、医学部へ転向したそうです。
1844年に、医学博士号をとり、
内科を目指しましたが、
空きが無かったので、産科を専門にしたそうです。
そして、
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
調査、研究を始めました。
第一産科は、医学生の教育のための医院で、
第二産科は、産科専門医だけが勤務していました。
人間の過密具合でいうと、
第二産科の方が、混みあっていました。
『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』は、
「学生とプロの産科医の診断や治療法の違い?」と考え、
調査しましたが、大きな違いは、ありませんでいた。(続く)
- 関連記事
-
- 感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(1)
- 感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(2)
- 感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(3)
- 感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(4)
- 感染予防(1)-消毒の大切さを訴え続けたため、殺された医師『センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ 』(5)