2人の大量殺人鬼を生み出したコロンビア(2)-「ラ・ビオレンシア(暴力)の時代」(1)-『ラウレアーノ・ゴメス』大統領
- 2021/12/31
- 05:05
1946年に保守党政権が誕生してから十数年間は、
「ラ・ビオレンシア(暴力)の時代」と言われ、
保守党派と自由党派が、
お互いにテロを、何度も行っていました。
1948年の選挙で、当選確実といわれた
自由党党首『ホルヘ・エリエセル・ガイタン』が、
保守党派により、暗殺されると、
自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、
ボゴタ暴動、が起きたそうです。
そして、
「個人で最も多くの人間を殺した殺人鬼」の
『ペドロ・アロンソ・ロペス』が、
生まれる半年前の1948年4月4日、
ボゴタ暴動で、
父『ミダールド・レイエス』コロンビア保守党員は、
銃弾を受けて、死んだそうです。
そして、コロンビアには、
ボゴタ暴動を収める能力を持った政治家が、
いなかったので、「暴力」の時代を迎えました。
「暴力」の時代の約10年間での死者は、
約20万人以上と言われています。
そして、
コロンビアの「ラ・ビオレンシア(暴力)の時代」に、
「個人で最も多くの人間を殺した殺人鬼」と呼ばれる、
『ペドロ・アロンソ・ロペス』と、
「世界最悪の連続殺人鬼」と呼ばれる、
『ルイス・アルフレド・ガラビート・クビヨス』の
2人の大量連続殺人鬼を生み出しました。
1950年、
就任した超保守派『ラウレアーノ・ゴメス・カストロ』大統領は、
事態を収拾するためと称して、
独裁を激しくしていき、
それに伴い弾圧が、激しくなり、
暴力が日常化していったそうです。
市民たちは、身を守るため、
武装化して行きました。
しかし、
『ラウレアーノ・ゴメス・カストロ』大統領の独裁が、
自由党はもちろん、
保守党との上層部からも、
受け入れがたいものだったので、
保守党と自由党の幹部たちは結託し、
軍に、事態の収拾を依頼しました。
1951年10月28日、
『ラウレアーノ・ゴメス・カストロ』は、
心臓発作を起こし入院し、健康上の理由で、
大統領を、辞任しました。
そして、1951年11月5日その後継者として、
保守党の『ロベルト・ウルダネタ』が、
大統領として就任しました。
しかし、
1953年、『ラウレアーノ・ゴメス・カストロ』は、
回復したので、大統領の支配を取り戻すことを考え、
画策しました。
そして、
保守党と自由党の幹部たちは、
『ラウレアーノ・ゴメス・カストロ』が、
権力を取り戻す前に、という事で、
1953年6月14日、軍事クーデターにより、
陸軍総司令官『グスタボ・ロハス・ピニージャ』が、
政権を握りました。(続く)
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