『エドワード・ジェンナー』とワクチン(6)-貧乏な使用人の息子に人体実験-ワクチン誕生!昔で良かった
- 2021/11/25
- 05:05
「牛痘に感染した人の皮膚に水疱の中の液体が、
天然痘ウイルスへの免疫として、
機能しているのではないか?
それなら、
牛痘に感染した人の皮膚に水疱の液体を抽出し、
健康な人に接種すれば、
人痘法より遥かに安全に免疫が、
獲得できるのではないか?」と推測しました。
そして、牛痘ウイルスを用いた牛痘法は、
例え発症しても軽度で、
瘢痕も残らない事から、より安全な方法ですが、
どうして進めていくか、行き詰っていました。
そのため、
『エドワード・ジェンナー』は、師匠『ジョン・ハンター』に相談しました。
師匠『ジョン・ハンター』は、
「お前の推論は正しいと思う。
why think,why not try?
なぜ考える、何故実行しない?」と言ったそうです。
『エドワード・ジェンナー』は、その言葉に押され、
人体実験を行う事にしました。
そして、
『エドワード・ジェンナー』は、
牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けました。
1796年5月、
牛の乳搾りの若い女性『Sarah Nelmes(サラ)』と出会いました。
『Sarah Nelmes(サラ)』の両手や腕には、複数の水疱があり、
牛痘に感染した牛の『ブラッサム』から、牛痘に感染した、
典型的な牛痘感染者でした。
『Sarah Nelmes(サラ)』に出来た、
手の水疱の内容物を採取し、
1796年5月14日、
自分の家の使用人の貧しい庭師の息子の
『ジェームス・フィリップス』8歳の両腕に、
2本の引っかき傷を作り、
何度も繰り返し水疱の内容物を塗りました。

その後、
『ジェームス・フィリップス』は、
7日目に腕の付け根部分に不快感を訴え
9日目に頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退しました。
これは、牛痘感染者の典型的な症状でした。
しかし、10日目には、ほぼ回復しました。
それから6週間後、
『エドワード・ジェンナー』は、
『ジェームス・フィリップス』に、
天然痘患者の膿疱から取り出した体液を、
同様な方法で、接種しました。
その後、何日経っても、『ジェームス・フィリップス』は、
天然痘を発症しませんでした。
その後、『ジェームス・フィリップス』は、
約20回位以上、天然痘接種を受けましたが、
天然痘を発症しませんでした。
しかし、
安全が100%担保されていない、
仮説に基づく人体実験だし、
『ジェームズ・フィップス』は、希望もしていなかったし、
人体実験に関しては、理解もしていなかったし、
天然痘が発症するかもしれないなどの問題点など、
現在なら、問題行為になるような事でしたが、
当時の社会は、人権に対して、
未成熟だったので、何も問題になりませんでした。
この方法は、種痘と呼ばれるようになりますが、
ワクチンの原型が、完成した歴史的な出来事でした。
ちなみに、
ワクチンという言葉は、『エドワード・ジェンナー』が、
牛痘から、ヒントを得たので、
ラテン語で牛を意味する「vacca」 から来ています。
ちなみに、
『ジェームズ・フィップス』は、『エドワード・ジェンナー』に感謝し、
その後もジェンナー家に、仕えたそうです。
『エドワード・ジェンナー』も、
後ろめたさがあったからかは不明ですが、
ワクチンの貢献に対して、
『ジェームズ・フィップス』に、
立派な家を、無償で提供したそうです。
その後も、『エドワード・ジェンナー』は、研究を続け、
自分が行っている方法が、正しいし、安全と分かり、
自分の11歳の息子『ロバート・ジェンナー』を含む、
23人の子どもたちに種痘を行ったりなど、
実験や考察を繰り返し、
種痘を施した子は、全員が天然痘に対する免疫を、
獲得している事実を確認できたので、
その成果を論文にまとめ、
1797年、英国王立協会の機関誌「Philosophical Transactions」に、
投稿しました。
しかし、医学界では、認めようとせず、
この論文を不完全なものと見なし、
コメントも付けずに、つき返したそうです。
そして、
イギリスの王立協会は、
論文の拒否をした上、
牛痘の調査を中止することを提案したそうです。
しかし、
その後も『エドワード・ジェンナー』は、研究を続け、
さらに、2件の症例を追加して、
1798年、「Inquiry(審理)」を、自主出版しました。
そして、『エドワード・ジェンナー』は、実証するため、
ボランティアの募集を試みましたが、
しかし、
「牛の体液を体内に入れたら、牛になる。」という、
風刺漫画なども出回り、
怖がっていた人が、多かったそうです。
そのため、『エドワード・ジェンナー』は、
「神の乗った牛の聖なる液」と言って、接種したそうです。
そして、種痘は、
人痘接種法の一種に過ぎないと思っている医者も、
多かったそうです。
そのため、初めの3ヵ月間は、ボランティア希望者は、
誰もいませんでした。
しかし、「Inquiry(審理)」を読んだ2人の医者が、
自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出ました。
『エドワード・ジェンナー』は、
興味を抱いた医師たちに対して、種痘方法を指南して回りました。
しかし、『エドワード・ジェンナー』の元には、
批判や中傷の手紙が届いたり、
種痘を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いたり、
さらに、医師の中でも、
中途半端に種痘のやり方を聞いた人が、
牛痘ウイルスの入っていない牛の体液を使って失敗し、
「やっぱインチキだ!」と言って、
中傷してくることもあったそうです。
1798年、『エドワード・ジェンナー』は、
「牛痘の原因および作用に関する研究」と題し、
イラスト付きで、詳しく、種痘方法と結果を、発表したので、
これが、人類初の、ワクチン接種に関する記録となりました。
そして、
1799年、「Further Obserbation」と題する追補を、
1801年には、「ワクチンの接種の起源」を、発表しました。
『エドワード・ジェンナー』の「種痘(牛痘接種)(ワクチン)」は、
徐々に、医師や学者の間で、
徐々に、効果があるという声が圧倒的となり、
「種痘(牛痘接種)(ワクチン)」が、急速に広まり、
『エドワード・ジェンナー』は、
特許をとるとワクチンが高価なものになり、
多くの人々に行き届かないと考え、
種痘の特許をとることはせず、
問い合わせがあれば世界中、
誰が相手でも私費で、指南書やサンプルを提供し続けました。
そして、
1801年には、種痘をした人は、
イギリスだけで、10万人以上になりました。
英議会は、『エドワード・ジェンナー』に対し、
約5百万円の褒賞金を与えました。
『エドワード・ジェンナー』の「種痘(牛痘接種)(ワクチン)」は、
各イギリス植民地、フランス、
スペイン、アメリカ、カナダなど、世界に拡大していきました。
そして、『エドワード・ジェンナー』の予防接種プログラムは、
ほとんどのヨーロッパ諸国に到達しました。
『エドワード・ジェンナー』のワクチンの効果は、
世界的に認められ、数々の栄誉を受けましたが、
同時に、攻撃や嘲笑にもさらされ、
精神的に疲れたので、
次第に公の生活から退き、
バークレーの田舎の診療に戻ったそうです。
ちなみに、
1802年、ナポレオン戦争により、
多くのイギリス国民がフランス軍の捕虜となりました。
そのため、
『ナポレオン・ボナパルト』に、
捕虜の釈放の嘆願書が出されたそうです。
『ナポレオン・ボナパルト』は、
嘆願者の中に『エドワード・ジェンナー』の名があるのを知って、
釈放を許したそうです。
その後、
『エドワード・ジェンナー』の長男や妹ら家族が、病気などで、次々と死去し、
1815年、妻『キャサリン・ジェンナー』が、結核で亡くなったそうです。
『エドワード・ジェンナー』は、悲しみで、
ものすごく落ち込んで、ふさぎ込んでいたそうです。
1920年、『エドワード・ジェンナー』は、
ストレスから、脳卒中を患い、治療していました。
『エドワード・ジェンナー』は、
病気で死にかけている友人を訪ねた翌日、
1823年1月26日早朝、
『エドワード・ジェンナー』は、
享年73歳で、脳卒中のため、死亡したそうです。
ちなみに、2003年、デンマーク予防医学研究所が、
強いストレスを感じている人は、
ストレスのない人よりも、
脳卒中で死ぬ確率が、
約2倍ほど有意に高いと発表しました。(続く)
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