ドリトル先生と「ジキルとハイド」のモデル-『ジョン・ハンター』(14)-義弟の裏切り
- 2021/10/15
- 05:05
最後の弟子『ウィリアム・クリフト』が、
『ジョン・ハンター』のコレクションや研究資料を、
保管、整理していました。
すると、
『ジョン・ハンター』の義弟で、弟子でもあった、
医師で解剖学者の『エヴァラード・ホーム』が、
『ウィリアム・クリフト』に、
義兄『ジョン・ハンター』の残した研究資料一切を要求しました。
『ウィリアム・クリフト』は、嫌な予感がしたので、引き渡しを伸ばし、
できるだけの論文を写しました。
その後、『エヴァラード・ホーム』は、
死人に口なしという事で、
義兄『ジョン・ハンター』の未発表の論文を、
盗用してどんどん発表しました。
義弟『エヴァラード・ホーム』は、カモノハシの解剖について、
最も早く研究を行い、
カモノハシが胎生ではなく、
卵胎生であることを発表したりなど、
義兄『ジョン・ハンター』の論文を盗作しながら、
数多くの研究論文を発表し、高い評価を得ました。
ちなみに、
自分が、オーストラリアを放浪していた時、
メルボルン動物園で、カモノハシの飼育係から、
バックヤードを案内してもらい、
カモノハシを間近で見て、感動しました。
そして、義弟『エヴァラード・ホーム』は、
義兄『ジョン・ハンター』の研究を、かなり盗用していたので、
証拠隠滅のために、
義兄『ジョン・ハンター』の資料を、全て焼き捨てたそうです。
そして、
1784年より、義弟の『エヴァラード・ホーム』が、
『ジョン・ハンター』の死後、盗用のおかげもあり、
聖ジョージ病院の常勤外科医となり、
1808年には、イギリス国王『ジョージ3世』の外科医となり、
1814年に、王立協会の副会長となり、
1822年に、外科医組合の後身の
王立外科医師会の初代会長となりました。
そして、
1832年、アルコール中毒で死亡したそうです。
後日、『ウィリアム・クリフト』が、書き写した
『ジョン・ハンター』の論文により、
『エヴァラード・ホーム』の盗作がバレました。
ちなみに、
『ジョン・ハンター』の弟子は、約500人以上と言われ、
パーキンソン病で有名なイギリスの外科医で、
古生物学者『ジェームズ・パーキンソン』、
ヘルニア手術を考案したことで有名な、
イギリスの外科医で、
解剖学者『アストリー・クーパー』などがいますが、
一番有名なのは、
人類史上初めて、ワクチン開発に成功した事で、
有名な『エドワード・ジェンナー』です。(続く)
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