ドリトル先生と「ジキルとハイド」のモデル-『ジョン・ハンター』(10)-Greater siren
- 2021/09/21
- 05:05
朝5時から、解剖室で作業を開始し、
朝9時に朝食をとり、
その後、患者の診察を行い、
昼12時まで患者を診察し、
少し休憩し、昼食後、
午後4時まで診察し、
夕食を食べた後、1時間仮眠し、
その後講義や実験をし、解剖の結果を口述筆記し、
深夜1-2時にまで、作業する事もあったそうです。
睡眠時間は、平均4時だったそうです。
そして、
弟子の指導をし、1日19時間以上、働いていたそうです。
ただし、体調は万全とは言えず、
狭心症に悩まされていました。
『ジョン・ハンター』は、
人や多数の動物実験や動物標本の作成を行い、
博物学者『ジョン・エリス』と協同で、
漫画「天才バカボン」の「ウナギイヌ」に似た、
両生類のサイレン科Greater sirenの解剖所見に関して論文を書き、

Greater siren
解剖学と博物学の分野で評価され、
学術論文が認められて、
1767年には、
王立協会の会員となりました。
兄『ウィリアム・ハンター』は、その3ヶ月後に、
王立協会の会員となりました。
その後、『ジョン・ハンター』は、
兄『ウィリアム・ハンター』の助手時代に作った標本や、
2人で発見した功績が、
兄『ウィリアム・ハンター』の物になっていた事に不満があり、
お互いに頑固なところがあったので、
何度も衝突したそうです。
ある日、『ジョン・ハンター』が、
珍しい標本を、兄『ウィリアム・ハンター』に見せた所、
勝手に持って帰ってしまった事に激怒し、
「自分の発見をウィリアムが盗んだ。」と告発し、
1780年には、完全に対立し、
元に戻せない程、仲がこじれて、
その後、2人の仲は、
死ぬまで修復される事は、ありませんでした。
1783年3月30日、
兄『ウィリアム・ハンター』が死んだ時、
遺言で、家族ら沢山の人に遺産を分けましたが、
『ジョン・ハンター』には、一切何も残しませんでした。
しかし、『ジョン・ハンター』は、講義の終わりに、
「諸君、我が国の解剖学がこうむった損失に
ついて知らせておきたい。
君たちも知っていると思うが、
尊敬していた兄『ウィリアム・ハンター』が死んだ。」と言って、
両目に涙をため兄『ウィリアム・ハンター』の功績を、
たたえたそうです。(続く)
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