ドリトル先生と「ジキルとハイド」のモデル-『ジョン・ハンター』(7)-偉大な音楽家と医者
- 2021/09/09
- 05:05
同僚の従軍外科医『ロバート・ホーム』の目の治療を行い、
仲が良くなりました。
戦後、『ジョン・ハンター』は、
『ローバート・ホーム』の自宅に招待され、
『ローバート・ホーム』の娘で美人の『アン・ホーム』と知り合いました。
1764年、『アン・ホーム』が重病にかかり、
『ジョン・ハンター』が治療しました。
そして、懸命な治療で治り、
その年に『ジョン・ハンター』は、『アン・ホーム』と婚約しました。
しかし、収入が不安定だった為、結婚はしなかったそうです。
兄『ウィリアム・ハンター』の口利きにより、
1768年、セントジョージ病院の常勤外科医になり、
収入が安定したので、1771年、
『ジョン・ハンター』(43歳)、『アン・ホーム』(29歳)は、結婚しました。
結婚式には、『ジェームズ・クック』船長や博物学者で、
「自然史の父」と呼ばれている『サー・ジョゼフ・バンクス』らが、
出席しましたが、
兄『ウィリアム・ハンター』は、
「解剖学と結婚は、両立できない。」と言って、
出席しなかったそうです。
ちなみに、
『アン・ホーム』は、作詩家で、
著名な作曲家『フランツ・ヨーゼフ・ハイドン』と、交流があったそうです。
ちなみに、
1800年12月24日の夜。
『フランツ・ヨーゼフ・ハイドン』作曲の『天地創造』のフランス初演が、
パリの共和国芸術劇場で行われたそうです。
オーケストラが演奏を始めた直後、
建物の外で雷鳴のような音がなったので、
中断したそうです。
実は、その音は、『ナポレオン・ボナパルト』を狙った、
手製の爆弾だったそうです。
ちなみに、
著名な作曲家『ヨハネス・ブラームス(ブラームス)』の親友に、
1881年、世界で初めて、胃癌切除手術に成功し、
現在でも、胃切除術法として、勉強する位、
有名な「ビルロート法」の開発者として知られ、
チューリッヒ大学医学部外科教授や、
ウィーン大学医学部外科教授を歴任した、
著名な『クリスティアン・アルベルト・
テオドール・ビルロート(ビルロート)』という、
ドイツ出身のオーストリアの外科医が、いました。
『ビルロート』は、幼少期より、
ピアノとヴァイオリン、ヴィオラを学び、
外科教授として多忙な生活のかたわら、
音楽会に出席したり、
音楽評論や室内楽曲、歌曲の作曲もしていたそうです。
ちなみに、
自分は、幼稚園の時、ドラえもんのジャイアンの様に、
ものすごく音痴なのに、
他の人の歌声を、かき消す位、ものすごく大声で歌い、
周囲の人々が、その騒音に耐えられず、
泣き出す位、迷惑をかけていたので、
見かねた幼稚園の先生は、
ピアノ教室は、開いていませんでしたが、
音痴を治して、周囲の人々を助けるという使命感から、
小学校の低学年まで、
ピアノの個人レッスンを、してくれました。
その結果、無事に音痴が治り、歌がうまくなったので、
あの音痴が、ピアノを習うだけで、
歌がうまくなったと、評判が立ちました。
そして、幼稚園の先生の元に、
ピアノを習いたいと言う人が、殺到したので、
ピアノ教室を、開く事になりました。
ちなみに、
大阪の実家には、まだピアノは、ありますが、
ピアノを、売ったり、捨てる事も出来ず、
現在は、記念品として、
カバーのかかった単なる大きな置物となっています。
ちなみに、現在では、
歌謡曲、フォーク、沖縄の歌、
そして、発音は、でたらめですが、
アメリカンポップス、
そして、シャンソンも歌えます。
でも、カラオケや飲み会は、好きだけど、
飲みすぎるので、最近は、参加していません。
ちなみに、
沖縄の動物病院勤務の時、院長宅で、飲み会があった時、
院長の義理のお兄さんのアフリカ人がいました。
その院長の義理のお兄さんのアフリカ人が、
自分が勤務する予定だった、
ザンビアの大学の獣医学の先生だったし、
ザンビアの大学には、友人も勤務していたので、
ものすごく盛り上がり、
気が付いた時には、
院長が大切に保管していた泡盛を、
全て、飲み干した後だったので、
猛反省して、泡盛を買って、渡した事があります。
1865年、『ブラームス』の演奏会を聞いた、
『ビルロート』は、自宅に招きました。
それ以降、親友となりました。
そして、『ブラームス』は、作品が完成すると、
『ビルロート』に感想を聞き、一緒に、演奏したりしました。
1873年に完成した弦楽四重奏曲第1番、第2番は、
『ビルロート』に、捧げられています。
ちなみに、
『ブラームス』は、完璧主義だったので、納得いくまで作曲したので、
弦楽四重奏曲第1番、第2番が完成するのに、
8年間以上かかったそうです。
ちなみに、
交響曲第1番の作曲には、
20年以上の歳月をかけたそうです。
1878年から、1882年まで、
『ビルロート』は、外国語に堪能だったので、案内役を務め、
『ブラームス』と一緒に3回以上、イタリアを旅行したそうです。
しかし、1887年、
『ビルロート』は、肺炎のため一時重体に陥り、
その後、回復しましたが、
心不全を併発し、体調が、優れなかったので、
引退し、静養していました。
『ビルロート』は、静養しながら、
民謡について、研究していました。
そして、ある程度の成果が出たと考え、
その研究成果について、
『ブラームス』に、手紙で参考意見を求めました。
しかし、『ブラームス』から、
『ビルロート』の素人考えを皮肉った手紙が、送られてきました。
『ビルロート』の妻は、『ブラームス』の手紙を読んで、
『ブラームス』に対して、腹を立てました。
その20日後、『ビルロート』は、死亡しました。
そして、『ブラームス』は、
1894年2月10日に行われた
『ビルロート』の葬儀の出席に、
参加したいと言いましたが、
『ビルロート』の妻は、許しませんでした。
そのため、『ブラームス』は、街頭に立って、
葬列を見送ったそうです。
その後、落ち着いた頃、『ブラームス』は、『ビルロート』の妻に、
『ビルロート』の室内楽曲、歌曲が、素晴らしいので、
出版をすすめました。
すると、『ビルロート』の妻は、
曲に手を加えないことを条件に、認めました。
しかし、完璧主義だった『ブラームス』は、
曲に手を入れてしまい、
再び、『ビルロート』の妻の怒りを買って、
すべての原稿を取り上げられました。
そのため、
『ビルロート』の室内楽曲、歌曲は、
世に出ないまま失われました。
その後、落ちついた頃、『ブラームス』は、
『ビルロート』の妻を訪ねました。
その時、『ブラームス』は、肝臓癌に侵され、
体調が優れず、ヨロヨロだったそうです。
そして、『ビルロート』の妻は、
『ブラームス』の訪問を許したそうです。
『ブラームス』は、やっと和解できたと喜び、
長い間、『ビルロート』の孫と遊んだり、
『ビルロート』の妻と『ビルロート』の思い出話をしながら、過ごしました。
そして、その翌年の1897年4月3日、
『ブラームス』は、肝臓癌で、死亡しました。(続く)
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