フランス料理(3)-白いコック帽
- 2021/06/16
- 05:05
石工職人をしていた16番目の息子で、
貧しい家庭だったので、10歳位で、
パリの路上に放り出されたそうです。
生きていくため安食堂に住み込んで、
見習いとして働き始めた結果、
やがて頭角を現し、1798年に、
美食家のフランスの外交官
『シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
(タレーラン)』に出入りしていた、
有名パティシエ『シルヴァン・バイイ』に弟子入りし、
才能を認められたそうです。
そして、『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』は、
フランスの外交官
『シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
(タレーラン)』邸の主任料理人として働いたそうです。
そして、
『タレーラン』の命により、重複しない、
かつ、季節の食材のみを使用した、
1年間のメニューを作るなど試行錯誤を続けたそうです。
1814年に始まったウィーン会議の間、
『タレーラン』は、何度も夕食会を主催しましたが、
その時の、料理は、大好評となり、
『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』は、
「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれる程、
一躍有名になりました。
そして、ウィーン会議が終わった時、
ヨーロッパの上流階級の食べる料理は、
『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』の
影響を受け、刷新される事になったそうです。
ある時、お客さんのかぶっていた、
高い白いシルクハットを気に入り、
厨房でも同じような帽子をかぶったのですが、
有名シェフが被っているという事で、
真似をする人が多くなり、
シェフの白いコック帽が、
他の料理人に広まり定着したそうです。
そして、
『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』は、
砂糖や飴、チョコレートなど菓子の材料で作った、
細工物のピエスモンテにも力を入れて、
図書館で読んだ建築史の本から発想を得て、
寺院やピラミッドや古代の遺跡のピエスモンテも作り、
時には、数メートルの高さのピエスモンテを作製し、
道化師がその上に乗って踊って、
人々を楽しませたそうです。
その後、
『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』は、
『ナポレオン』らの宴会のメイン料理を請け負い、
ただし、『ナポレオン』は、
美食には、無関心でしたが、
食卓外交の重要性は、よく理解していて、
資金援助を行なったそうです。
そして、
イギリスの『ジョージ4世』、
ロシア皇帝『アレクサンドル1世』、
オーストリア帝国皇帝『フランツ1世』などに使えた後、
パリに戻ってロスチャイルド家の料理長に就任し、
1833年に死亡したそうです。
『マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム』の
著書「19世紀のフランス料理術」全5巻は、
何百ものレシピやテーブルセッティングが、
書かれています。
ただし、執筆中に没したため、
最後の2巻は、弟子が書いたそうです。(続く)
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