フランス革命(23)-バスティーユ牢獄(10)-首を斬られた場合(1)-フランスの守護聖人『サン・ドニ』
- 2021/04/21
- 05:05
成功したと言うのニュースは、
フランス全国に飛び火し、
各地の平民たちが、勢いづき、
貴族や領主を襲って、
借金の証文を焼き捨てるという事件が、多数発生しました。
財政難から給与が十分ではなかったし、
第三身分の平民出身の兵士もいて、
国王軍は、やる気が無かったので、鎮圧する気も無く、
また、商人などの裕福な平民や平民派の貴族たちが、
兵士たちを買収したので、
各地方で軍隊の反乱も起こりました。
しかし、国王軍は、軍を維持する資金、
食料が無かったので、鎮圧することが出来ず、
『ルイ16世』は、心の中では、嫌だと思いながらも、
第三身分の平民がつくった「国民会議」に出席し、
「朕は国民と共にある。」と言い、和解を宣言し、
革命派の民兵隊を国民衛兵として承認し、
フランスの各都市では、革命派からなる常設委員会が設置され、
革命派が、政治の実権を掌握するようになりました。
そして、
国王軍を指揮した貴族たちは、群衆に処刑されました。
そして、1789年8月26日、「国民会議」で、
人間は生まれながらにして、自由で平等。
全ての主権は、国民。
法の前では、全員が平等。
言論の自由。
司法、行政、立法の独立…三権分立。
そして、
平民は、ほとんど財産と言うものが無かったのですが、
裕福層を意識した、所有権の不可侵などを謳った、
「人権宣言」という「思想(イデオロギー)」を、宣言しました。
しかし、『ルイ16世』は、「人権宣言」を認めませんでした。
そして、平民が食事も満足に食べられないのに、
『ルイ16世』の住むヴェルサイユ宮殿では、
豪華な食事が並ぶ宴が続き、
そこで、
近衛兵が、『ルイ16世』の面前で、
フランス革命の象徴の三色旗を、
踏みにじるというデモンストレーションを行いました。
この事が伝わると、民衆の間に怒りが広がりました。
ちなみに、
三色旗(トリコロール)のフランス国旗は、
現在のフランスの憲法では、
国の標語「自由、平等、博愛」を、示すと書かれていますが、
フランスの軍人、政治家の『ラファイエット侯爵
マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・
ジルベール・デュ・モティエ(ラファイエット)』が、
1789年7月に考えたと言われ、

赤白青
パリ市民軍の標章「青、赤」に、
『ルイ16世』のブルボン朝の象徴の白百合に由来する、
「白」を加えたものだと言われています。
パリ市民軍の標章「青、赤」は、
パリ市の紋章から、来ているそうです。

パリ市の紋章は、
パリは、セーヌ川の恩恵を受けているので、
セーヌ川と船が、デザインされているそうです。
パリ市の紋章の、
青色は、聖母マリアの服の色で、
当時一番高価だった青色を、
フランス王『フィリップ2世』が選び、
赤色は、パリ最初の司教『サン・ドニ(ディオニュシウス)』の墓に、
飾られていた旗の色、殉教者の血を、示しているそうです。
ちなみに、
秋田市の紋章は、
秋田の佐竹氏の居城「久保田城(矢留城)」を表す「矢」と、
五穀豊穣を象徴する「田」を合わせた、
丸に矢留を表したものです。

秋田市役所勤務の時に、
最初に、秋田市の紋章の由来を聞きました。
ちなみに、
フランス国旗は、1814年の『ナポレオン』没落後、
1815年の王政復古でブルボン朝が復活したので、
ブルボン朝の象徴の白百合に由来する白一色になり、

1830年、フランス7月革命で、
ブルボン朝が打倒され、七月王政(オルレアン朝)となったので、
再び、フランス国旗は、
色の配置が変化しましたが、三色旗になったそうです。

青白赤
ちなみに、
現在のフランスに相当する地域は、
紀元前1世紀までは、
マッシリア(現・マルセイユ)などの
地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、
ケルト民族が住む土地で、
古代ローマ人は、この地をガリア(ゴール)と、
呼んでいたそうです。
ゴールに住むケルト民族は、
ドルイド教を軸に、自然を信仰する独自の文化体系を、
持っていましたが、統一されていませんでした。
ドルイド教は、恐ろしい儀式がありましたが、
その話は、後日…。
46年、ゴール(現在のフランス)に住むケルト民族の、
『ウェルキンゲトリクス』が、ゴールの諸部族をまとめ、
『ガイウス・ユリウス・カエサル』とガリア戦争で戦い、
良い所までいきましたが、
最終的には敗れ、ゴール(現在のフランス)は、
ローマ領になりました。
『ガイウス・ユリウス・カエサル』は、
基本的に、敵に回った人間でも、
処刑することが、なかったのですが、
フランス最初の英雄『ウェルキンゲトリクス』が、
優秀すぎたために、将来を考えると、危険だと考え、
『ガイウス・ユリウス・カエサル』の凱旋式が、
行われた時に、処刑されたそうです。
ちなみに、
『マリー・アントワネット』の実家は、
『ガイウス・ユリウス・カエサル』一族の末裔だそうです。
ちなみに、360年に、
ゴールの都市ルテティアは、パリと改名したそうです。
250年頃、ケルト民族のパリジ(パリシイ)族の、
『サン・ドニ(ディオニュシウス)』は、
セーヌ川のシテ島で暮らしていたそうです。
『サン・ドニ(ディオニュシウス)』は、
パリ最初のキリスト教の司教となり、
多くの人々を、キリスト教に改宗させたので、
ドルイド教ら異教の僧侶の怒りを買い、
パリ近郊のドルイドの聖地(現在のモンマルトル)で、
剣で斬首されたそうです。
モンマルトルという名は、「殉教者の山」という意味で、
『サン・ドニ』らの殉教に、ちなんで、名付けられたそうです。
斬首された『サン・ドニ』は、
自分の頭を拾い上げ、腕に抱え、
説教をしながら、歩き始めたそうです。
見ている人々は、驚いて見守っていると、
約10km歩き、カトラクス村(現在のサン=ドニ)に着いた所で、
倒れたので、そこで、埋葬され、
小さな礼拝所が建てられ、赤い旗が奉献され、
それが、軍旗となり、フランスの国旗の赤となったそうです。
そして、『サン・ドニ』は、フランスの守護聖人となり、
代々のフランス王族たちが、
『サン・ドニ』の埋葬地を、詣でるようになり、
やがて、歴代フランス国王が埋葬される事になる、
サン=ドニ大聖堂と付属教会へと発展したそうです。
ちなみに、
『サン・ドニ』像は、フランス各地で見られ、
手に自分の頭を、持っています。

『サン・ドニ』が、首を斬られても、
死なないで、生きていたという話ですが、
中国の神話で、『刑天』は、
首を斬られても、盾や斧を持って、
『黄帝』と戦ったそうです。

それを見て、人々は、『刑天』は、首を斬られても、
戦うことをやめない不屈の闘志を持っているという事で、
戦神として敬うようになったそうです。
『刑天』については、後日…。
でも、普通は、首を切られても生きるという事は、
絶対あり得ないと、思いますが、
実際には、首を斬られても生きたという話があります。
それは、…(続く)