フランス革命(19)-バスティーユ牢獄(6)-10人の生首(3)
- 2021/04/03
- 05:05
お互いに危害を加えない事を条件に、話し合いをしていたのに、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』は、
連行途中、暴徒化した群衆により、
殴られたり、ナイフや剣で刺されたり、
銃で急所を外して、撃たれたりして、繰り返し暴行されました。
そして、パリ市庁舎近くで、
失業中の料理人『デノ』が、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』の、
股間を蹴り上げた時、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』は、
「もうたくさんだ!殺してくれ!」と叫んだそうです。
そして、暴徒化した群衆は、
「殺されたいなら、殺してやる!」と言って、制止を振り切って、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』を、
虐殺しました。
そして、同じ様に、捕まっていたバスティーユ牢獄の守備隊6人も、
虐殺しました。
そして、
パリ市長『ジャック・ド・フレッセル』は、
バスティーユ牢獄襲撃前に、
「パリ市は民兵隊の創設を決めました。
それぞれの地域から、
800人の民兵を選抜して、
総勢4万8千人の民兵隊を創設します。
だから、私たちに任せて、
蜂起した群衆は、解散して下さい。」と、
言っていましたが、
バスティーユ牢獄の前日、
武器の所在について、あいまいな発言を行ったので、
暴徒化した群衆が、
「パリ市長『ジャック・ド・フレッセル』は、
市民を惑わせる裏切り行為を行った!」と言って、
市庁舎で、虐殺されました。
ちなみに、
他のバスティーユ牢獄の守備隊は、
群衆側のスイス人傭兵連隊が護衛し、
最終的に、解放されました。
ちなみに、後日、バスティーユ牢獄の守備隊の19人が、
死刑となったのを除くと、
バスティーユ牢獄の守備隊の約110人のうち、
戦闘中の死者1人、負傷者3人でした。
それに対し、
暴徒化し、攻撃に加わった群衆側は、千人以上いましたが、
約100人以上の死傷者を出しました。
そして…、(続く)
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