フランス革命(17)-バスティーユ牢獄(4)-10人の生首(1)
- 2021/03/31
- 05:05
「国民自身が、決めた約束事の法律を、
国民が選挙で選んだ政治家を通じて、
独立と自由を守りつつ、平等に執行する事が理想。」という、
啓蒙主義に、影響を受けた民衆は、
フランスの王様や貴族が優遇されるという、
絶対君主制政治に対して、
政治を変える必要があると考えたそうです。
そして、その改革をするためには、
武器弾薬が必要と考えましたが、
軍病院から奪った約3万丁の小銃は、ありましたが、
弾薬がほとんど無く、不十分でした。
『マルキ・ド・サド』が、叫んだのも影響し、
バスティーユ牢獄には、武器弾薬がたくさんあり、
沢山の政治犯、啓蒙思想家がいると噂されていました。
そのため、民衆は、
バスティーユ牢獄から、武器弾薬を調達する事になりました。
ちなみに、
1789年7月14日の襲撃当日、
収監されていたのは、
政治犯、啓蒙思想家…では、なく、
文書偽造犯の4人、狂人の2人、素行不良の1人だったそうです。
しかし、バスティーユ牢獄は、
元々は、パリの東側を守るために、
1370年に建設された要塞で、
約30mの城壁と8基の塔と、
大砲で守られているような堅牢な構造で、
武器弾薬が沢山ありました。

常設のバスティーユ牢獄守備隊は、
約80人の戦傷を負った兵士たちで、
構成されていました。
ただし、傷ついていますが、訓練された兵士です。
そして、
バスティーユ襲撃の2日前に、
約30人のスイス傭兵が、増員されました。
戦いのエキスパートのスイス傭兵については、後日…。
民衆は、戦闘訓練を受けていないし、
かつ、火薬を持たないという、圧倒的に不利な状況なので、
バスティーユ牢獄側が、大砲や銃で攻撃すれば、
騒動は、終息していました。
しかし、
食べ物にも困っている民衆に同情した、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』が、
お互いに、危害を加えない事を条件にして、
話し合いをするだけと言って、
1789年7月14日、
民衆の代表3人を、バスティーユ牢獄内に、招き入れ、
豪華な食事を提供し、もてなしました。
ちなみに、1740年4月9日、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
父『ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』が、
バスティーユ牢獄司令官だった時に、
バスティーユ牢獄で、生まれたそうです。
そして、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
フランス衛兵隊に、入隊し、
バスティーユ牢獄に隣接する家を、所有していたので、
バスティーユ牢獄司令官になる前は、
家の賃貸で、生活していました。
そして、1776年、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
バスティーユ牢獄司令官の職を、
前任者『アントワーヌ=ジョゼフ・ド・ジュミアック』から、買い取って、
父と同じように、バスティーユ牢獄司令官になり、
1778年12月19日に、
『ルイ16世』の長女『マリー・テレーズ・シャルロット』誕生の祝砲を、
撃ち損じたことを除いては、
13年間、平穏に過ごしていたそうです。
ちなみに、『マルキ・ド・サド』は、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』の事を、
「祖父が使用人の、いわゆる侯爵。
小間使いのように、囚人達を扱おうと思っている男。」と言っています。
話し合いで、代表者3人は、武器弾薬の引き渡しを、要求しました。
しかし、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
武器弾薬の引き渡しは拒否したので、交渉は難航しました。
ちなみに、
バスティーユ牢獄は、連想するイメージとは異なっていて、
部屋は一辺が、約5mで、光が十分に入る窓があり、
囚人は、愛用の家具を、持ち込むことが出来て、
服装も自由で、図書館や遊戯室も完備され、
病気の時は、国王の侍医が、診察したそうです。
そして、
専属のコックや使用人を雇うことも可能で、
食事は、昼は、3種類のおかずと、
夜は、5種類のおかずが付いたそうです。
ちなみに、
自分は、市役所勤務の時、
刑務所の食堂の調査に、仕事で行った事がありますが、
その時は、おいしそうな魚料理とご飯でした。(続く)
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