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フランス革命(17)-バスティーユ牢獄(4)-10人の生首(1)

『ジャン=ジャック・ルソー』

「国民自身が、決めた約束事の法律を、

国民が選挙で選んだ政治家を通じて、

独立と自由を守りつつ、平等に執行する事が理想。」という、

啓蒙主義に、影響を受けた民衆は、

フランスの王様や貴族が優遇されるという、

絶対君主制政治に対して、

政治を変える必要があると考えたそうです。

そして、その改革をするためには、

武器弾薬が必要と考えましたが、

軍病院から奪った約3万丁の小銃は、ありましたが、
弾薬がほとんど無く、不十分でした。


『マルキ・ド・サド』が、叫んだのも影響し、

バスティーユ牢獄には、武器弾薬がたくさんあり、

沢山の政治犯、啓蒙思想家がいると噂されていました。

そのため、民衆は、
バスティーユ牢獄から、武器弾薬を調達する事になりました。

ちなみに、
1789年7月14日の襲撃当日、

収監されていたのは、

政治犯、啓蒙思想家…では、なく、

文書偽造犯の4人、狂人の2人、素行不良の1人だったそうです。

しかし、バスティーユ牢獄は、

元々は、パリの東側を守るために、
1370年に建設された要塞で、

約30mの城壁と8基の塔と、

大砲で守られているような堅牢な構造で、
武器弾薬が沢山ありました。



常設のバスティーユ牢獄守備隊は、

約80人の戦傷を負った兵士たちで、

構成されていました。

ただし、傷ついていますが、訓練された兵士です。

そして、
バスティーユ襲撃の2日前に、
約30人のスイス傭兵が、増員されました。

戦いのエキスパートのスイス傭兵については、後日…。

民衆は、戦闘訓練を受けていないし、

かつ、火薬を持たないという、圧倒的に不利な状況なので、

バスティーユ牢獄側が、大砲や銃で攻撃すれば、

騒動は、終息していました。

しかし、
食べ物にも困っている民衆に同情した、

バスティーユ牢獄司令官『ベルナール=ルネ・ド・ローネー』が、

お互いに、危害を加えない事を条件にして、

話し合いをするだけと言って、

1789年7月14日、
民衆の代表3人を、バスティーユ牢獄内に、招き入れ、

豪華な食事を提供し、もてなしました。

ちなみに、1740年4月9日、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、

父『ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』が、
バスティーユ牢獄司令官だった時に、

バスティーユ牢獄で、生まれたそうです。

そして、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
フランス衛兵隊に、入隊し、

バスティーユ牢獄に隣接する家を、所有していたので、
バスティーユ牢獄司令官になる前は、
家の賃貸で、生活していました。

そして、1776年、
『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、
バスティーユ牢獄司令官の職を、
前任者『アントワーヌ=ジョゼフ・ド・ジュミアック』から、買い取って、

父と同じように、バスティーユ牢獄司令官になり、

1778年12月19日に、
『ルイ16世』の長女『マリー・テレーズ・シャルロット』誕生の祝砲を、
撃ち損じたことを除いては、

13年間、平穏に過ごしていたそうです。

ちなみに、『マルキ・ド・サド』は、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』の事を、

「祖父が使用人の、いわゆる侯爵。
小間使いのように、囚人達を扱おうと思っている男。」と言っています。

話し合いで、代表者3人は、武器弾薬の引き渡しを、要求しました。

しかし、
バスティーユ牢獄司令官『ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー』は、

武器弾薬の引き渡しは拒否したので、交渉は難航しました。

ちなみに、
バスティーユ牢獄は、連想するイメージとは異なっていて、
部屋は一辺が、約5mで、光が十分に入る窓があり、

囚人は、愛用の家具を、持ち込むことが出来て、

服装も自由で、図書館や遊戯室も完備され、

病気の時は、国王の侍医が、診察したそうです。

そして、
専属のコックや使用人を雇うことも可能で、

食事は、昼は、3種類のおかずと、
夜は、5種類のおかずが付いたそうです。

ちなみに、
自分は、市役所勤務の時、
刑務所の食堂の調査に、仕事で行った事がありますが、
その時は、おいしそうな魚料理とご飯でした。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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