フランス革命(15)-バスティーユ牢獄(2)
- 2021/03/15
- 05:05
自分の宮殿パレ・ロワイヤルは、
借金の抵当になっていたそうです。
そのため、
パレ・ロワイヤルの屋敷の庭園を、
コの字を描くように建物を建て、商人たちに貸し出したので、
レストラン、商店、カフェなどが立ち並びました。
『オルレアン公』は、
パレ・ロワイヤルへの警察の立ち入りを禁じたので、
パレ・ロワイヤルは、
怪しげな商売をする人、娼婦、犯罪者、
革命家などのたまり場となっていたそうです。
『ルイ16世』が、外出と集会の禁止令を出したのですが、
『オルレアン公』の宮殿パレ・ロワイヤルには、
『ルイ16世』の禁止令を無視して、大群衆が集まりました。
そして、
パレ・ロワイヤルで、
ジャーナリストの『カミーユ・デムーラン』が、
「諸君、武器を取れ!」という演説をして、
約6千人以上の群衆を扇動し、
『オルレアン公』の宮殿「パレ・ロワイヤル」から、
行列を組んで出発したそうです。
ちなみに、『オルレアン公』と『カミーユ・デムーラン』は、
フランス革命成功後、
悲惨な結果に、なりますが、その話は、後で…。
そして、
約6千人以上の群衆は、
貴族たちは、良い生活をしているのに、
自分たちは、税金が高くて、物が買えず、
このままでは、餓死し、死ぬしかないし、
王は、軍隊を集めて、自分たちを殺そうとしているので、
もう、後が無いという事と、
啓蒙主義の人権、平等、自由を知ってしまっていたので、
自分たちには、正義があると考え、
武器は、農機具位しなかったのですが、
命を懸けて死に物狂いで、軍病院に押しかけ、
約3万丁の小銃を奪いました。
軍病院のすぐ近くに、
国王軍が野営していましたが、
財政悪化のため、
給料支払いが遅れ、充分な支払いさえなく、
近衛兵すら不満を口にし、
将校の命令に従わなくなっていたし、
第三身分の平民出身の兵士もいたので、
離反する可能性を考慮して、出動は見送られました。
その当時、バスティーユ牢獄に、
大量の武器弾薬があるという事と、
沢山の政治犯、啓蒙思想家が、
捕まっているという噂が、あったそうです。
軍病院から、小銃を奪ったのですが、
弾薬が、ほとんど無かったので、
武器弾薬を譲ってもらうという事と、
政治犯を解放しようという事で、
1789年7月14日、
群衆は、バスティーユ牢獄に、向かいました。(続く)
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