ラスプーチンとタフな犬の話(3)-ラスプーチン(3)
- 2010/09/09
- 09:09
魚と卵と果実と黒パンを食べていたそうです。
それと、大量のお茶を飲んだそうです。
お酒は飲みましたが、
朝6時のミサは欠かさなかったそうです。
ある時、皇帝一家と礼拝堂でミサの途中に、
ラスプーチンは顔面蒼白になり、倒れかかったそうです。
その時、自分の娘に
「自分の死の苦痛を感じた。
自分は間もなく死ぬだろう。」と言ったそうです。
そして、ニコライ2世に
「私は近日中に殺されます。
私を殺す者が農民であれば、
ロシアは安泰でしょう。
もし、私を殺す者の中に陛下の一族がいれば、
陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。
そしてロシアは長きにわたって
多くの血が流されるでしょう。」と言ったそうです。
ニコライ2世の従弟の
フェリックス・フェリクソヴィッチ・ユスポフ公(ユスポフ)が
ラスプーチンをバカにするために、
趣味の女装して、ラスプーチンに近づきました。
ラスプーチンは、ユスポフの女装を見抜けなかったので、
ユスポフは、ラスプーチンを罵倒しました。
すると、ラスプーチンは、ユスポフを平手打ちしました。
その事が気持ちよかったので、ユスポフは、
ラスプーチンを敬愛するようになり、
それ以降、
ラスプーチンは、ユスポフを「おチビちゃん」と呼んで、
可愛がりました。
ちなみに、ユスポフは、結婚して、子供はいましたが、
同性愛と女装の趣味があったそうです。
ラスプーチンは、
皇帝に対して戦争不参加を説いたり、
革命運動激化を考慮して農民層の減税、
宮廷の人事などの提言をしたそうです。
ただし、上記のことに関しては、
聞き入れられなかったそうです。
しかし、ユスポフや宮廷貴族たちは、
戦争推進派だし、宮廷の人事の事にも、口を出す、
ラスプーチンに危機感を抱きました。
1916年12月30日、
ユスポフや宮廷貴族たちは、ラスプーチンを食事会に招待しました。
甘いものが大好物で虫歯だらけのラスプーチンは、
まず、出された青酸カリ入りのお菓子を残らず食べたそうです。
それでも死なないので、
さらに青酸カリ入り葡萄酒が、出されました。
そして、それを一気に飲んでも、
変化が無かったそうです。
(その理由として青酸カリがワインや
そのときに食べたケーキの糖分で中和されたことや、
古い青酸カリで酸化していたなどが言われていますが、
その原因は不明です。)
そして、ラスプーチンは、
毒を盛られたことに気がつかなかったので、
何事も無かったかのように、
食後の祈りを捧げていました。
それを見たユスポフ公たちは、
そっとラスプーチンの背後に回り、
彼の頭を燭台で何度も激しく殴打しました。
そして、ユスポフ公たちは、
隣室からピストルを取ってきて
心臓めがけて、撃ちました。
そこで倒れましたが、ふたたび息を吹き返し、
よろめく足で立ちあがったそうです。
そして、
「ユスポフ!お前のやった事を、
言いつけるからな!」と言いながら、
ふらつきながら、階段をのぼろうとするところを、
背中と頭に、2発撃ったそうです。
倒れたのですが、
しばらくするとまた、ぴくりと動いたそうです。
恐怖にかられ数人で、夢中で頭や体を、
鈍器などで殴ったり蹴ったりしたそうです。
その後、道路に投げ出したそうです。
それでも、不安だったので、縄で体を縛って、
その上に、布に巻いて、
凍りついたネヴァ川の氷を割って開けた穴に、
投げ込まれたそうです。
三日後、ラスプーチンの遺体が発見されました。
検視の結果、肺に水が入っていたため、
死因は溺死とされました。
そして、縄で、縛られていたのに、
両手を上にあげていたそうです。
即ち川に投げ込まれた時もまだ息があって、
縄を解いて、逃げようとして、水を飲んだということです。
その生命力は、凄いと思います。
そして、ラスプーチンの予言どおり、
ラスプーチンの死後3カ月後に、
ロシア革命によって
ロマノフ朝が崩壊し、
ニコライ2世とその家族は殺害されたそうです。
またそれに続く内戦やボリシェヴィキ政権による
恐怖支配で多くの死者を出すことになりました。(続く)
- 関連記事
-
- ラスプーチンとタフな犬の話(1)-ラスプーチン(1)
- ラスプーチンとタフな犬の話(2)-ラスプーチン(2)
- ラスプーチンとタフな犬の話(3)-ラスプーチン(3)