ワンマン『吉田茂』(6)
- 2020/12/22
- 05:05
日本は主権を取り戻し、GHQによる統治も終了し、
『鳩山一郎』公職追放が、解けました。
そのため、『鳩山一郎』は、『吉田茂』に、
「約束通りに、首相を代われ。」と言ってきました。
『吉田茂』は、
「『鳩山一郎』の公職追放が、
解けたらポストを返すよ。」と言っていたのが、
他の国でも、あるように、
その頃には、政権を握った者しか味わえない楽しみを、
知ってしまっていたので、
『鳩山一郎』に、
「まだやり残したことがあるので、政権は返さない。」と言って、
「抜き打ち解散」と呼ばれる強攻策を使いました。
『鳩山一郎』は、総裁に復帰しようと、有志を集めましたが、
突然の解散のせいで、選挙準備などが出来ず、
解散後、
『吉田茂』が、「日本独立に一役買った。」との世論から、
『吉田茂』が当選し、
第4次吉田内閣が、発足することになりました。
しかし、
1953年、衆議院予算委員会で、
吉田内閣の通産大臣『池田勇人』が、
「中小企業の一部倒産もやむを得ない。」、
「貧乏人は麦を食え。」など、
度重なる問題発言を繰り返したので、
野党から、通産大臣不信任決議案を提出され、
可決され、
窮地に追い込まれた『吉田茂』と、
社会党右派の『西村栄一』議員との、
激しい質疑応答中、
お互いにヒートアップしたそうです。
実は、
第二次世界大戦中、『吉田茂』は、親英米派として、
軍部に睨まれ、
憲兵に身柄を拘束される憂き目にも、遭っていました。
逆に『西村栄一』議員は、
軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かったそうです。
そのため、『吉田茂』は、『西村栄一』議員の事が、
嫌いだったそうです。
『西村栄一』議員は、
「総理大臣が、過日の施政演説で、
国際情勢は楽観すべきであると述べていましたが、
その根拠は?」と聞くと、
『吉田茂』は
「私は国際情勢は、
楽観すべしと述べたのでは、なく、
戦争の危険が、遠ざかりつつあるという事を、
イギリスやアメリカの総理大臣が、
言われたので、そう信じました。」と答えると、
『西村栄一』議員は、
「私は、日本国の総理大臣に、
国際情勢の見通しを聞いているので、
外国の翻訳を、聞いているのではない。
外国の総理大臣の楽観論では、なく、
日本の総理大臣としての、
国際情勢の見通しとその対策を、
お述べになることが当然ではないか?」と言うと、
『吉田茂』は、
「只今の私の答弁は、
日本の総理大臣として、
御答弁致したので、確信するのであります。」と、
興奮気味に答えると、
『西村栄一』議員は、
「総理大臣は、興奮しない方がよろしい。
別に興奮する必要は、ないじゃないか。」と言うと、
『吉田茂』は、
「無礼なことを言うな!」と言うと、
『西村栄一』議員は、「何が無礼だ!」、
『吉田茂』は、「無礼じゃないか!」、
『西村栄一』議員は、
「質問しているのに、何が無礼だ。
君の言うことが無礼だ。
日本の総理大臣として、
答弁しなさいということが、何が、無礼だ!
答弁できないのか、君は…」と言うと、
『吉田茂』は、座りながら、
小さな声で、
「バカヤロー」とつぶやいた時、
偶然マイクが拾いました。
すると、
『西村栄一』議員は、
「何がバカヤローだ!
バカヤローとは何事だ!
これを、取り消しなさい。
総理大臣たる者が、
何を私の言うことに、興奮する必要があるのか?」と、
興奮しながら迫ると、
『吉田茂』は、
「私の言葉は、不穏当でありましたから、
はっきり取り消します。」と言いました。
『西村栄一』議員は、
「70歳を過ぎて、一国の総理大臣たる者が、
取り消された上からは、私は追究しません。」と言いました。
『吉田茂』は、発言当初は、
「つい言ってしまったのが、
マイクに入った。」としょげ返っていましたが、
数日後には元気を取り戻し、
「これからも、
ちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく。」と、
余裕を見せていましたが、
同じ自由党内の『鳩山一郎』、『三木武吉』たちの、
反『吉田茂』グループは、
「バカヤロー」と発言したと騒ぎ建てて、
内閣不信任案を可決させ、
衆議院が解散されました。
そのため、『鳩山一郎』と『吉田茂』は、
決定的に、仲が悪くなったそうです。
そして、選挙の結果、自由党は少数与党に転落したので、
改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて、
延命を繋ぎましたが、
鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、
支持は下落したそうです。
ちなみに、
日本で、5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは、
『吉田茂』だけで、内閣総理大臣在任期間は、2616日だそうです。
後日、『吉田茂』は、
「取るに足らない言葉尻をとらえて、
不信任案に同調した、
同じ自由党だった『鳩山一郎』、『三木武吉』たちの仲間を、
裏切りと言って、
生涯忘れる事が出来ないと述べました。
ちなみに、
『吉田茂』が、発言を取り消したので、
議事録の中では、
『吉田茂』と『西村栄一』議員が発言した、
「無礼」と「バカヤロー」という部分は、伏字になっているそうです。
1954年、海運業の贈収賄事件の造船疑獄が起きた時、
自由党幹事長『佐藤栄作』が、逮捕されそうになりました。
その時、『吉田茂』は、
『犬養健』法務大臣に、
幹事長『佐藤栄作』の逮捕を中止して、
任意捜査及び在宅起訴に切り替えるよう、
検察に、政治的圧力を加えるように命じたそうです。
造船疑獄による政局不安定が続く最中、
『吉田茂』は、アメリカなどの7カ国訪問に出かけました。
その間に、『三木武吉』が、反『吉田茂』派を結集し、
『鳩山一郎』を総裁とする日本民主党が、結成されました。
造船疑獄の事を知った世論の反発は激化したので、
『犬養健』は、法務大臣の職を、
辞める事になりました。
そして、『吉田茂』は、幹事長『池田勇人』の説得を受け入れる形で、
内閣総辞職が行われました。
造船疑獄で、『吉田茂』が、
国会から証人喚問を複数回要求されましたが、
病気を理由に出頭しなかったそうです。
そのため、国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されましたが、
『吉田茂』が、首相を退いたという事で、検察は不起訴処分としました。
そして、
「日本民主党」の総裁『鳩山一郎』が選挙に勝ち、
総理大臣に就任しました。
その後、
「日本民主党」は、
『鳩山一郎』の友人『三木武吉』の尽力により
「自由党」と合併し、「自由民主党(自民党)」となりました。
その後、『吉田茂』は、
「自由民主党」に誘われましたが、
仲が悪い『鳩山一郎』がいるので、
拒否し、無所属だったそうです。
しかし、
「自由民主党」総裁を務めていた『鳩山一郎』が、
体力的な問題から、辞職し政界を引退すると、
吉田学級卒業生『池田勇人』の仲介で、
1957年
『吉田茂』は、「自由民主党」に入党しました。
1963年、政界を引退しましたが、
自邸には政治家が出入りし、
「大長老、」「吉田元老」などと呼ばれ、
政界の実力者としての影響力を持っていたそうです。
1967年8月に心筋梗塞を発症した時、
甥の医師会会長『武見太郎』の顔を見て、
「ご臨終に間に合いましたね。」と冗談を言ったそうです。
死去前日の10月19日に、
「富士山が見たい。」と病床で言って、椅子で座りながら、
1日中、快晴の富士山を眺めていたそうです。
10月20日に、大磯の自邸にて死去しました。
後日、アメリカのCIAの文書により、
『吉田茂』の暗殺計画があった事が、
判明しました。(続く)
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