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ワンマン『吉田茂』(6)

「サンフランシスコ講和条約」が締結され、
日本は主権を取り戻し、GHQによる統治も終了し、
『鳩山一郎』公職追放が、解けました。

そのため、『鳩山一郎』は、『吉田茂』に、
「約束通りに、首相を代われ。」と言ってきました。

『吉田茂』は、
「『鳩山一郎』の公職追放が、
解けたらポストを返すよ。」と言っていたのが、

他の国でも、あるように、

その頃には、政権を握った者しか味わえない楽しみを、

知ってしまっていたので、

『鳩山一郎』に、
「まだやり残したことがあるので、政権は返さない。」と言って、

「抜き打ち解散」と呼ばれる強攻策を使いました。

『鳩山一郎』は、総裁に復帰しようと、有志を集めましたが、

突然の解散のせいで、選挙準備などが出来ず、

解散後、

『吉田茂』が、「日本独立に一役買った。」との世論から、

『吉田茂』が当選し、
第4次吉田内閣が、発足することになりました。

しかし、
1953年、衆議院予算委員会で、

吉田内閣の通産大臣『池田勇人』が、

「中小企業の一部倒産もやむを得ない。」、

「貧乏人は麦を食え。」など、

度重なる問題発言を繰り返したので、

野党から、通産大臣不信任決議案を提出され、

可決され、

窮地に追い込まれた『吉田茂』と、

社会党右派の『西村栄一』議員との、

激しい質疑応答中、

お互いにヒートアップしたそうです。

実は、
第二次世界大戦中、『吉田茂』は、親英米派として、
軍部に睨まれ、

憲兵に身柄を拘束される憂き目にも、遭っていました。

逆に『西村栄一』議員は、
軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かったそうです。

そのため、『吉田茂』は、『西村栄一』議員の事が、
嫌いだったそうです。

『西村栄一』議員は、

「総理大臣が、過日の施政演説で、
国際情勢は楽観すべきであると述べていましたが、

その根拠は?」と聞くと、

『吉田茂』は

「私は国際情勢は、
楽観すべしと述べたのでは、なく、

戦争の危険が、遠ざかりつつあるという事を、

イギリスやアメリカの総理大臣が、
言われたので、そう信じました。」と答えると、

『西村栄一』議員は、

「私は、日本国の総理大臣に、

国際情勢の見通しを聞いているので、

外国の翻訳を、聞いているのではない。

外国の総理大臣の楽観論では、なく、

日本の総理大臣としての、

国際情勢の見通しとその対策を、

お述べになることが当然ではないか?」と言うと、

『吉田茂』は、

「只今の私の答弁は、

日本の総理大臣として、

御答弁致したので、確信するのであります。」と、

興奮気味に答えると、

『西村栄一』議員は、

「総理大臣は、興奮しない方がよろしい。

別に興奮する必要は、ないじゃないか。」と言うと、

『吉田茂』は、

「無礼なことを言うな!」と言うと、

『西村栄一』議員は、「何が無礼だ!」、

『吉田茂』は、「無礼じゃないか!」、

『西村栄一』議員は、

「質問しているのに、何が無礼だ。

君の言うことが無礼だ。

日本の総理大臣として、
答弁しなさいということが、何が、無礼だ!

答弁できないのか、君は…」と言うと、

『吉田茂』は、座りながら、

小さな声で、

「バカヤロー」とつぶやいた時、

偶然マイクが拾いました。

すると、
『西村栄一』議員は、

「何がバカヤローだ!

バカヤローとは何事だ!

これを、取り消しなさい。

総理大臣たる者が、

何を私の言うことに、興奮する必要があるのか?」と、
興奮しながら迫ると、

『吉田茂』は、

「私の言葉は、不穏当でありましたから、
はっきり取り消します。」と言いました。

『西村栄一』議員は、

「70歳を過ぎて、一国の総理大臣たる者が、

取り消された上からは、私は追究しません。」と言いました。

『吉田茂』は、発言当初は、

「つい言ってしまったのが、

マイクに入った。」としょげ返っていましたが、

数日後には元気を取り戻し、

「これからも、

ちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく。」と、

余裕を見せていましたが、

同じ自由党内の『鳩山一郎』、『三木武吉』たちの、
反『吉田茂』グループは、
「バカヤロー」と発言したと騒ぎ建てて、
内閣不信任案を可決させ、

衆議院が解散されました。

そのため、『鳩山一郎』と『吉田茂』は、

決定的に、仲が悪くなったそうです。

そして、選挙の結果、自由党は少数与党に転落したので、
改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて、
延命を繋ぎましたが、

鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、
支持は下落したそうです。

ちなみに、
日本で、5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは、

『吉田茂』だけで、内閣総理大臣在任期間は、2616日だそうです。

後日、『吉田茂』は、
「取るに足らない言葉尻をとらえて、

不信任案に同調した、
同じ自由党だった『鳩山一郎』、『三木武吉』たちの仲間を、

裏切りと言って、

生涯忘れる事が出来ないと述べました。

ちなみに、
『吉田茂』が、発言を取り消したので、

議事録の中では、
『吉田茂』と『西村栄一』議員が発言した、
「無礼」と「バカヤロー」という部分は、伏字になっているそうです。

1954年、海運業の贈収賄事件の造船疑獄が起きた時、
自由党幹事長『佐藤栄作』が、逮捕されそうになりました。

その時、『吉田茂』は、

『犬養健』法務大臣に、

幹事長『佐藤栄作』の逮捕を中止して、

任意捜査及び在宅起訴に切り替えるよう、

検察に、政治的圧力を加えるように命じたそうです。

造船疑獄による政局不安定が続く最中、

『吉田茂』は、アメリカなどの7カ国訪問に出かけました。

その間に、『三木武吉』が、反『吉田茂』派を結集し、
『鳩山一郎』を総裁とする日本民主党が、結成されました。

造船疑獄の事を知った世論の反発は激化したので、

『犬養健』は、法務大臣の職を、
辞める事になりました。

そして、『吉田茂』は、幹事長『池田勇人』の説得を受け入れる形で、
内閣総辞職が行われました。

造船疑獄で、『吉田茂』が、
国会から証人喚問を複数回要求されましたが、
病気を理由に出頭しなかったそうです。

そのため、国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されましたが、

『吉田茂』が、首相を退いたという事で、検察は不起訴処分としました。

そして、
「日本民主党」の総裁『鳩山一郎』が選挙に勝ち、
総理大臣に就任しました。

その後、
「日本民主党」は、

『鳩山一郎』の友人『三木武吉』の尽力により
「自由党」と合併し、「自由民主党(自民党)」となりました。

その後、『吉田茂』は、
「自由民主党」に誘われましたが、

仲が悪い『鳩山一郎』がいるので、
拒否し、無所属だったそうです。

しかし、
「自由民主党」総裁を務めていた『鳩山一郎』が、

体力的な問題から、辞職し政界を引退すると、

吉田学級卒業生『池田勇人』の仲介で、

1957年
『吉田茂』は、「自由民主党」に入党しました。

1963年、政界を引退しましたが、
自邸には政治家が出入りし、
「大長老、」「吉田元老」などと呼ばれ、
政界の実力者としての影響力を持っていたそうです。

1967年8月に心筋梗塞を発症した時、
甥の医師会会長『武見太郎』の顔を見て、

「ご臨終に間に合いましたね。」と冗談を言ったそうです。

死去前日の10月19日に、
「富士山が見たい。」と病床で言って、椅子で座りながら、
1日中、快晴の富士山を眺めていたそうです。

10月20日に、大磯の自邸にて死去しました。

後日、アメリカのCIAの文書により、
『吉田茂』の暗殺計画があった事が、
判明しました。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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