日露戦争(1)-義和団の乱-ニコライ2世(1)
- 2017/04/15
- 05:05
ラスプーチンを敬愛していたニコライ2世は、
ものすごく日本を軽蔑していました。
日清戦争で日本が勝利し、
日本と清との間で結ばれた下関条約により、
遼東半島が日本に割譲されました。
ニコライ2世は、
「日本の小猿が良い気になっている。
黄色人種などの有色人種の国々は、
優秀な白人人種の植民地にしかすぎない。
我が国が本気を出せば、
すぐに領土を差し出し、
我が前にひれ伏すだろう。」と言っていました。
キリスト教の外国人宣教師たちは、
人種的優越感からの上から目線で、
中国社会に臨み、中国の慣習などを無視することが多く、
しばしば地域の住民と衝突したそうです。
そのため、日本の「尊王攘夷」と同じように、
中国でも「扶清滅洋」
(清をたすけ、外国を排除する。)が言われだし、
中国の拳法の一派の義和拳を習得した人々が集まり、
義和団が結成されました。
そして、「義和団の乱(北清事変)
(清国事変)(庚子事変)」が起きました。
その後、清の西太后は、
最初、義和団を、鎮圧しようとしましたが、
次第に、義和団を、支持するようになりました。
そして、義和団の大軍団が、
北京にあった各国の大使館を取り囲み、
職員を殺害していきました。
各国の大使館は、
少数の護衛兵を持っていたので、
日本を含む5か国が共同して、
戦う事になりました。
激しい戦闘の中で、
柴五郎陸軍中佐が、
皆が右往左往する中、落ち着いて、
的確な指示を出しました。
日本兵は、何百人も必要な程の
広大な守備範囲を数十人で守り、
安東辰五郎隊長らの日本兵が、
サーベルで敵中に突進し、
敵を蹴散らしたそうです。
そして、
各国の援軍が来るまでの、
60日に及ぶ篭城戦を戦いました。
当時、イギリスは、日本を、
格下にみていたそうですが、
籠城戦の後、見方が変わったそうです。
イギリスは、栄光ある孤立と言って、
強大な経済力と海軍を中心とした軍事力を背景に、
他国とは同盟を結ばない外交方針を示していました。
篭城戦の総指揮をとっていた軍人出身の
イギリスのマクドナルド公使が、
日本兵の勇敢さと礼儀正しさに、
大いに心を動かされ深く信頼するようになり、
「北京籠城の功績は、
日本将兵の活躍が大きい。
勇猛果敢で規律に厳格なサムライ。
武士道を持つ日本人なら、同盟に値する。」と
イギリス首相などの指導者に説明しました。
そして、日英同盟が結ばれました。
ニコライ2世は、中国、朝鮮など
アジア全体をロシアの植民地にしようと考えていました。
義和団の乱が起きた時、
ロシアの陸相クロパトキンは、
「義和団が暴れてくれたので、
占領の口実が出来た。」と喜んだそうです。
そして、ロシアは、
「遼東半島は、清以外の国が治めると、
東洋の平和に禍根を残す。」と言って、
フランスとドイツと共同で、
日本に圧力をかけてきて、
遼東半島を清に返還させました。
その後、遼東半島は、ロシアが占領しました。
言っている事とやっている事が違うロシアに、
日本は、反感を持ち、危機感を感じました。(続く)
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