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朝鮮半島情勢(56)-北朝鮮(9)-収容所(3)

『シン・ドンヒョク』は、12歳まで、
母親と共に収容所生活を過ごしましたが、

年の離れた兄とは、数回しか会ったことがなく、

また、
母親は、休日も無く、毎日同じように、
午前5時から午後9時30分まで労働し、

労働後は、
1日のノルマを達成しなかった囚人について、

批判や処罰を行う約1時間30分の集会に、
出席していました。

そして、
母親が、家に戻ってくるのは、

午後11時過ぎなので、疲れ果てていて、

子供に愛情をそそぐ気力や時間は、
全くありませんでした。

2002年、『シン・ドンヒョク』が20歳の時、

母と兄が逃亡を企て、相談しているのを、

偶然耳にしました。

『シン・ドンヒョク』は、
以前、母親が自分の分の食事を、
兄に与えたのを見た事があるのですが、

自分はもらった記憶がなかったので、
それ以降、母や兄に対して、
嫌悪感を持っていました。

そして、2人が、
脱走を計画しているという事を聞いた時、

学校で、家族同士でも密告するという
思想教育を徹底的に受けていたし、

腹いっぱい何か食べ物がもらえたり、
看守に褒めてもらえると期待して、

学校で学んだ通りに、通報したそうです。

翌日、『シン・ドンヒョク』は、
看守から連帯責任だと言われて、

腕の形が変わるまで押さえつけられ、
爪を剥がされて、足かせをはめられ、
逆さ吊りにされて、気絶するまで、たたかれて、

尻から背中まで火であぶられるなど、

今も跡が残る位の酷い拷問を、受けたそうです。

その後、7か月間、
『シン・ドンヒョク』は、地下房で拷問を受け続けた後、

父親と共に、処刑場に連れて来られ、
最前列に座らされました。

しばらくすると、
母親と兄が、「北朝鮮国民の敵」だと言われて、
処刑場に連れて来られました。

母親は、拷問のせいか体がパンパンに腫れて、
兄は、ガリガリに痩せて、色々な所に内出血の跡があり、
2人とも、ふらついていました。

そして、
『シン・ドンヒョク』と父親の目の前で、
母は絞首刑となり、兄は射殺されました。

当時、『シン・ドンヒョク』は、
人が殺されるのは日常のことだし、

家族という言葉や親子の愛など知らないで育ったし、

肉親に対する深い思い入れは、全くなかったので、

自分の密告により、家族が殺されたのですが、

罪の意識や悲しいという気持ちは、感じませんでした。

単に、囚人の2人は、

収容所のルールを破ったのだから。
殺されて当然だし、

脱出を試みた母親と兄のために、
自分が、罰を与えられたので、

北朝鮮の体制ではなく、
母親と兄に対し、激しい怒りを覚えていたそうです。

その後、『シン・ドンヒョク』は、
縫製工場で働いていましたが、

ミシンを床に落とした罰として、
中指の一部を切断されたそうです。

当時、
『シン・ドンヒョク』は、

「優れた労働結果を出したり、
頻繁な密告などを行って、模範囚となり、
表彰結婚を認められる事。

作業チームのリーダーになり、
少しでも食べ物を多くもらう事。」以外に、
望みは、なかったそうです。

2004年、『シン・ドンヒョク』は、縫製工場で、

平壌出身で、中国に脱北し、捕まった
囚人『朴』と知り合い、話をするようになりました。

『シン・ドンヒョク』は、囚人『朴』から、

初めて、収容所の外の世界について、
教えてもらいました。

今まで、『シン・ドンヒョク』は、

看守は、生まれつき看守、

囚人は、生まれつき囚人。

世の中は、
どこにいっても収容所のようなと考えていたので、

食べたことや見たこともない、
鶏、豚、牛、馬の肉料理の話を聞き、

そして、
当たり前だと思っていた、
飢えと過酷な労働がない世界がある事を知り、

衝撃を受け、

収容所の外の世界に出て、体験したいという気持ちが、
日に日に募っていったそうです。

そして、
囚人『朴』が、

「私は、2カ月後に処刑される。

ここにいても、良い未来はない。

君も、いずれは、殺される。

チャンスがあれば、一緒に逃げよう!」と、

『シン・ドンヒョク』に言いました。

そして、
2005年1月2日、『シン・ドンヒョク』と囚人『朴』を含む

約25名の男女は、

収容所を囲む有刺鉄線のフェンス近くの山で、
薪拾いを命じられました。

『シン・ドンヒョク』と囚人『朴』は、作業していましたが、

看守たちのパトロール間隔が、長いことに気づきました。

そして、
作業しながら、看守が遠くへ行くのを待って、

「脱走するチャンスは、今しかない!」と言って、

一緒に、有刺鉄線に向かって走り出しました。

最初に、
囚人『朴』が、フェンスまでたどり着き、有刺鉄線に登りました。

しかし、有刺鉄線には、高圧電流が流れていたので、

激しく痙攣しながら、死にましたが、

その時の衝撃で、有刺鉄線の一部が破損しました。

『シン・ドンヒョク』は、
破損した有刺鉄線の穴を、

囚人『朴』の死体を這うようにして潜り抜けて、
猛ダッシュし、脱走することに成功しました。

そして、『シン・ドンヒョク』は、

収容所のすぐ外で、
最も貧しい地域と言われている農村地帯に逃げ込み、

そこにあった古い軍服を盗んで、兵士に偽装しました。

そこで、
笑って好きなことを話し、好きな格好をして、
看守に恐怖を感じないという風景を見ました。

自由に生きるという言葉を、
知らなかった『シン・ドンヒョク』にとって、

衝撃的な光景でした。

そして、
『シン・ドンヒョク』は、収容所で育って、

収容所から出たことが無かったし、

収容所では、お金というものが無かったので、

お金の価値を知りませんでしたが、

北朝鮮の農村部で、
お金の価値や一般常識など、
生活に必要な事を、一気に学びました。

その後、
食べ物やお金などを盗みながら、放浪し、
そのまま北へ向かいました。

すると、
知らないうちに中国との国境付近へとたどり着きました。

そこで、
盗んだお金、食品、タバコなどを、国境警備員に渡し、
中国との国境を越えたそうです。

その後、
『シン・ドンヒョク』は、中国を放浪し、

2006年、上海の韓国料理店で、
韓国人男性記者に偶然出会い、

体験談などを、話しました。

するとその記者が、上海にある
韓国の在上海総領事館に話をつけてくれたので、

『シン・ドンヒョク』は、韓国へ亡命することが、
出来たそうです。

最初、『シン・ドンヒョク』は、
北朝鮮の収容所と韓国とのあまりの違いに、
カルチャーショックやストレス障害に苦しみ、
入退院を繰り返しましたが、

現在は、韓国のソウルで安定した生活を、
送っているそうです。

『シン・ドンヒョク』は、体験談を聞かれた時、

「当時は、正義や人権なんてものは、知らなかったし、

北朝鮮の人権迫害を暴くつもりもなかった。

でも、韓国の子どもたちと
収容所で暮らす子どもたちの生活を比べてみて、

色々な事を、より深く考えるようになった。

そのため、
自らの体験談を、より多くの人に広める活動を、
積極的に続けたいと思います。

そして、
北朝鮮の独裁政権を、
終わらせることが私の使命だ。

でも、
収容所では、お金がなかったので、
お金の事を考えたことが、無かったのですが、

韓国では、お金に気を取られている人が多いので、
残念に思います。

でも、
絶対に二度と地獄の収容所に、戻りたくはないです。

当時は、
家族という重要な意味、概念を知りませんでした。

収容所では、普通に人が死んでいました。

だから、涙を流すような感情を持てなかった。

しかし、脱北して、

多くの人々が家族と助け合い、

愛し合って暮らすのを見て、

家族の事を理解しました。

そして、
母親は、自分を生んでくれた存在であり、
兄は、血を分けた兄弟だと分かりました。

だから、
最後に言いたいのは、

もし、
母親と兄に会えたなら、土下座して謝りたい。

しかし、できない。

そのことが、毎日、トラウマとして襲ってくる。

今でも当時のことを思い出すと、
涙が出てきます。

今も北朝鮮の収容所にいて、
虐待されている人たちの事を考えると、
悲しくなります。

一刻も早く、北朝鮮の収容所から、
全員を、解放してあげたい。」と言いました。

ちなみに、
北朝鮮の人口は、約2千4百万人ですが、

そのうちの約20万人が、
現在も、北朝鮮の収容所に収容され、
虐待され続けています。

2014年、
国連は北朝鮮における、
人権侵害を糾弾する報告書を発表しました。

すると、

北朝鮮は、

自国の人権状況が、

世界一優れていると反論しました。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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