朝鮮半島情勢(24)-韓国(14)-『全斗煥』(1)-光州事件
- 2020/03/01
- 05:05
『崔圭夏』国務総理が、
大統領権限代行に就任し、
早期の民主化を目指す憲法改正と
新憲法に基づく大統領選挙を、実施することを発表しました。
『崔圭夏』大統領権限代行は、
『朴正煕』政権誕生の立役者で、
後日、『金泳三』政権、
『金大中』政権誕生に、大きく貢献する
陰の実力者『金鍾泌』に、
次期大統領を依頼しましたが、
拒否されたので、
『崔圭夏』大統領権限代行が、
そのまま、大統領に選出されました。
そのため、
それまで抑圧されてきた韓国国民は、
独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、
「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが広がりました。
しかし、
『朴正煕』の暗殺により、3つあった権力中枢は、
権力バランスが崩れ、政局は不安定になっていました。
1つ目の中央情報部は、トップが大統領殺害犯となった事から、
2つ目の警護室は、室長が殺害された事から、
それぞれ権力を失い、
3つ目の国軍保安司令部は、
参謀総長兼戒厳司令官『鄭昇和』陸軍大将、
司令官兼合同捜査本部長『全斗煥』陸軍少将と、
『全斗煥』は、
朝鮮半島の南東部の嶺南(慶尚道)出身でしたが、
『全斗煥』が、
同郷の嶺南(慶尚道)出身者の陸士卒業生の中で、
後日、韓国大統領になる
第9師団長『盧泰愚』陸軍少将など、
優秀な将校を集めた集団の「ハナフェ(一心會)」が、
実権を掌握する事になりました。
しかし、
『鄭昇和』が、『全斗煥』と対立し、
「ハナフェ(一心會)」を、軍中枢より排除しようと試みたので、
1979年12月12日、
『全斗煥』と「ハナフェ(一心會)」は、
「『鄭昇和』が、
事件当時現場に居ながら、
事実確認をしなかったのは、
大統領殺害の共犯だったからだ!」と言って、
『鄭昇和』がいる公邸を強襲し、
『鄭昇和』を、確保しました。
しかし、確保だけではなく、
逮捕という取り扱いにして、裁きたかったのですが、
参謀総長兼戒厳司令官『鄭昇和』陸軍大将を、
逮捕者として、取り扱うとなると、
大統領の許可が必要なので、
『全斗煥』が、許可を得ようとして、
『崔圭夏』の元を訪ねましたが、
「軍を総括、統制する
国防部長官『盧載鉉』の承認なしには、
絶対に認めない。」と拒みました。
国防部長官『盧載鉉』は、
一連の出来事を、
共産ゲリラによる襲撃と誤認していたので、
家族と一緒に、国防部に避難していました。
そして、『全斗煥』は、ここが、正念場と考え、
国防部長官『盧載鉉』を確保するため、
『全斗煥』は、
自分の指揮下にある、
特殊戦司令部第1空挺旅団など、
軍隊を投入しました。
『盧泰愚』陸軍少将の第9師団が、
ソウルの中央庁を占拠しました。
そして、
国防部や陸軍本部の公邸のある
漢南洞や景福宮一帯の道路が封鎖され、
兵隊や警察官が、入り乱れて、銃撃戦に発展し、
最終的には、
特殊戦司令部第1空挺旅団により、
国防部や陸軍本部が占拠され、
国防部長官『盧載鉉』も、確保されました。
そして、
国防部長官『盧載鉉』は、
最初は、逮捕を認めないと言いましたが、
最終的には、圧力に屈し、
参謀総長兼戒厳司令官『鄭昇和』の逮捕を、
認めました。
そして、『全斗煥』が、『崔圭夏』に、
国防部長官『盧載鉉』が、逮捕を認めたと言うと、
『崔圭夏』は、国防部長官『盧載鉉』の対応のまずさを非難し、
「参謀総長兼戒厳司令官『鄭昇和』逮捕後による、
事後承認は認めない!」と突っぱねました。
しかし、
『崔圭夏』は、
軍部を掌握していなかったので、
結局、認めるしかありませんでした。
そして、
『全斗煥』と「ハナフェ(一心會)」が、
完全に政治の実権を掌握しました。(粛軍クーデター)。
韓国国民は、
「ソウルの春」と呼ばれている民主化への運動が、
盛り上がっていたので、
軍事政権への反対運動が、各地で発生しました。
そのため、
1980年5月17日、非常戒厳令拡大措置が発令され、
反対勢力は、軍により鎮圧され、
大学の休校、政治活動の停止、
言論、出版、放送などの事前検閲、
そして、
反対勢力の『金大中』らの政治家が、逮捕されました。
政府の中心人物の『全斗煥』、「ハナフェ(一心會)」のメンバーは、
朝鮮半島の南東部の嶺南(慶尚道)出身でしたが、
『金大中』は、
朝鮮半島の南西部の全羅南道出身で、
全羅南道の光州市(現:光州広域市)では、
人気がありました。
ちなみに、
嶺南(慶尚道)と全羅南道は、
936年に高麗が朝鮮半島を再統一するまで、
「新羅(嶺南(慶尚道)」と
「後百済(全羅南道)」と違う国だったので、
昔から、住民同士が、
対立しやすい傾向があったそうです。
全羅南道の地元の政治家『金大中』が、
逮捕されたという事で、
1980年5月18日、
全羅南道の光州市(現:光州広域市)で、
光州市にある2つの大学、
全南大学と朝鮮大学の学生たちにより、
『金大中』の釈放を求めるデモが起きました。
そのため、『全斗煥』は、全南大学と朝鮮大学に、
陸軍第七空挺旅団の三三大隊と三五大隊を派遣し、
大学を封鎖しました。
そして、
全南大学に入ろうとしてきた学生たちを、
校門前で、陸軍空挺部隊が、門前払いしました。
門前払いされた全南大学の学生たちは、
光州駅前で体勢を立て直して、
『金大中』の釈放と
大学封鎖解除を求めるデモ行進をしました。
陸軍空挺部隊は、
デモ鎮圧のため、4百人以上の学生を逮捕しました。
しかし、
デモは、学生だけではなく、
次第に20万人以上の市民が参加し、
民主化要求のデモに、発展していきました。
そして、20万人以上の市民は、
バスやタクシーを倒してバリケードを築き、
角材、鉄パイプ、火炎瓶などを使用して、
銃で装備した軍、警察と、交戦状態になりました。
市民は、銃に対抗するため、
自動車工場、軍需関係工場、郷土予備軍の武器庫を襲撃して、
装甲車、銃器、
そして、
ダイナマイトの約2倍の火力を持つTNT爆薬などを、
奪取したそうです。
そして、
1980年5月21日、激しい銃撃戦の末に、
全南大学2年生『ユン・サンウォン』を先頭に、
市民は、全羅南道道庁(地区をおさめる役所)を、
占拠したそうです。
1980年5月22日、政府軍は、光州市外に一時撤退した後、
道路、鉄道、通信を遮断し、光州市を封鎖しました。
次第に、多くの市民は疲れ始め、
市民軍から脱落する人が増えたので、
地元の有力者などが、事態を収拾しようとして、
「市民収拾対策委員会」を組織し、
政府軍と交渉しましたが、決裂しました。
1980年5月25日、
戦闘意識の高い5万人の市民で、
「光州民主民衆抗争指導部」を結成し、
『金大中』の釈放、戒厳令撤廃を要求し、
銃撃戦を繰り広げました。
1980年5月26日、
韓国政府は、とうとう、戦車部隊を投入しました。
その結果、圧倒的火力のある戦車で、攻撃を仕掛けたので、
市民軍は、崩壊しました。
韓国政府は、一連の戦いで、
2万5千人以上の兵力を投入したそうです。
韓国政府は、
抵抗する光州市民を、
「北朝鮮のスパイに扇動された暴徒」と公式発表し、
1980年5月27日までに、
約4万人を逮捕しました(光州事件)。
1980年、5月31日、
韓国政府は、死亡者数は、
民間人が144人、軍人が22人、警察官が4人の170人、
負傷者数は、380人と公式発表しました。
しかし、
行方不明者などがいて、
実際の犠牲者は、2千人以上と言われています。
最初の犠牲者は、
重度の聴覚障害者の『キム・ギョンチョル』でした。
『キム・ギョンチョル』は、
友人の所へ遊びに行こうとした所、
デモ行進に出会いました。
デモとは関係なかったのですが、
政府軍に捕まった時、重度の聴覚障害者だったので、
政府軍の質問に、うまく答えることが出来なかったので、
棍棒で何度も頭などを殴られ、
頭蓋骨など色々な所が骨折して、死亡したそうです。
ちなみに、
全羅南道道庁を、先頭になって占拠した
全南大学2年生『ユン・サンウォン』は、
銃撃戦で、射殺されたそうです。
ちなみに、
『金大中』は、軍法会議で、
光州事件で首謀者として、
死刑判決となりましたが、
日本の『鈴木善幸』総理大臣が、
「日韓親善からみて、
『金大中』の身柄に重大な関心と憂慮の意を、
抱かざるを得ない。」と言うと、
『全斗煥』は、
「内政干渉だ。」と批判しました。
しかし、次第に国際的な批判が強まって、
1982年、無期懲役に減刑され、
1982年、12月23日、アメリカへの出国を条件に、
刑の執行が停止されました。
ちなみに、
韓国が1987年6月に、民主化宣言を勝ち取るまで、
光州事件は公式的には、無かった事にされ、
韓国国民の当事者以外は、光州事件の詳細を知らなかったそうです。
『全斗煥』は、
「社会の風土を乱す行為を、一掃する」という事で、
「三清教育隊」を創設し、
逮捕者全員を、「三清教育隊」に送りました。
ちなみに、三清とは、
「太元」を神格化した『元始天尊』、
「道」を神格化した『霊宝天尊(太上道君)』、
老子を神格化した『道徳天尊(太上老君)』の
3人の道教の最高神のことだそうです。
道教に関しては、機会があれば、後日詳しく…。
「三清教育隊」には、
1980年8月から1981年1月まで、
民主化運動の活動家、政府を批判した者、暴力団など、
約7万人が送られたそうです。
「三清教育隊」に送られると、
「審査委員会」により、ABCDに分類されたそうです。
A級は軍法会議、
D級は警察での訓戒処分だったそうです。
デモに参加したほとんどの人々は、BC級だったそうです。
その中には、
大学生、高校生、中学生など1万5千人の未成年者や、
主婦や女子中学生など女性も319人いたそうです。
「三清教育隊」では、何もしていない時は、
足を組み、寝る時も足を組んだまま、横になったり、
「滅共棒」と言う重い丸太を持たされたりするなど、
過酷な様々な肉体的、精神的虐待を受けたそうです。
そして、
2千5百人以上が、精神障害を負い、
52人死亡し、後遺症で、397人死亡したそうです。
しかし、2006年まで、韓国国内では、
「三清教育隊」の資料は、非公開だったそうです。
ただし、
ドイツ公共放送の東京在住特派員の
『ユルゲン・ヒンツペーター』が、当時、現場にいたので、
韓国以外の国には、事件を報道しました。
後日、真相を知った韓国国民は、
光州事件が起きた当時、
韓国軍の作戦統制権を持っていた
在韓米軍『ジョン・A・ウィッカム』司令官が、
秩序維持を理由に、
韓国軍部隊の投入を承認した事を知り、
アメリカへの批判が起こり、
韓国人の対アメリカ観が、悪くなったそうです。
そして、
1980年8月、『崔圭夏』は、
軍部の圧力のため、大統領を辞任し、
1980年9月1日、『全斗煥』が、
大統領に就任しました。(続く)
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