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朝鮮半島情勢(23)-韓国(13)-『朴正煕』暗殺(2)

1968年、北ベトナム軍による一斉攻撃で、

アメリカ軍が、大打撃を受けました。

すると、アメリカ国内で、長年戦っても成果がなく、

死者ばかりが増えていくことに対して、

反戦ムードが、ものすごく強まりました。

そして、
1973年にアメリカ軍が撤退し、

1975年に、
アメリカが支持していた南ベトナムが、

無条件降伏しました。

そして、ベトナム戦争の苦い体験から、

外国への軍事関与にきわめて慎重な態度が広がり、

アメリカ軍の在外駐留にも、

批判的な世論が高まりました。

そして、1976年、
アメリカで大統領選挙が行われました。

民主党候補として『ジミー・カーター』が、

選挙公約で、「在韓米軍の全面撤退」を訴え、
出馬しました。

当初は、「ジミーって誰?」という言葉が流行する程、
知名度が低く、

『ジミー・カーター』が、大統領(President)選出馬を決断し、

母親に報告した時、

Presidentは、会長、主宰者と言う意味もあるので、

母親は、

「どこの会長(President)に、

立候補するって?」と聞いたそうです。

しかし、『ジミー・カーター』は、

クリーンなイメージと満面の笑顔をアピールし、
世論調査会社を活用し、
各州が抱える問題の情報を収集し、
それに対応するメディア戦略をとり、

現職の『ジェラルド・R・フォード』大統領を破り、
当選しました。

大統領になった『ジミー・カーター』は、
世論調査のデータを盲信する傾向があり、
ホワイトハウスに専属の調査員を常駐させたそうです。

韓国大統領『朴正煕』は、

南ベトナムを見捨てたアメリカを見た事と、

「在韓米軍の全面撤退」を言う『ジミー・カーター』が、
アメリカ大統領になったので、

将来を見据えて、
北朝鮮とアメリカ軍なしで戦うためには、

核兵器が必要と考えたそうです。

その事を知ったアメリカは、
核兵器の拡散を防ぐため、

韓国大統領『朴正煕』に対して、

核兵器開発計画を、
やめるように勧告や警告をしましたが、

無視し続け、

核開発の野望を、捨てませんでした。

そのため、
韓国大統領『朴正煕』は、
アメリカにとって、
非常に厄介で、とても邪魔な存在でした。

1976年1月に、
韓国大統領『朴正煕』は、

アメリカの反対を押し切り、

カナダから重水型原子炉CANDUを、
1基購入する契約を結びました。

重水型原子炉CANDUを、
1年間稼働させると、

原爆の原料プルトニウム239が、
250kg生産されるので、

韓国大統領『朴正煕』は、

それを、フランスの協力を得て、

核兵器にしようと考えたのでした。

しかし、
アメリカは、それを許さず、
関係機関に圧力をかけました。

韓国大統領『朴正煕』は、

1977年12月に核燃料開発公団を設立しました。

核燃料開発公団は、
国内外の原子力技術者を総動員し、

ウラン濃縮技術開発を、

国家プロジェクトとして進め、

1980年までに核燃料の国産化を目指しました。

そして、1978年4月、
韓国大統領『朴正煕』念願の韓国初の原子力発電所が、
釜山で稼働し、原発国家の仲間入りをしたそうです。

1978年9月に、韓国は、フランスの技術支援を受け、
射程180kmの地対地誘導弾発射実験に成功しました。

その事を知ったアメリカは、1981年には、
韓国が、原子爆弾製造が、可能となると分析しました。

そして、
『ジミー・カーター』が、
韓国で、韓国大統領『朴正煕』と会談した時、

韓国大統領『朴正煕』が、

「韓国は、アメリカの求めに応じて、
ベトナムに、韓国軍を派遣しました。

しかし、
まだ、韓国は何一つ褒美を、もらっていません。」と言いました。

その場は、和やかに会談を終えました。

しかし、後日、側近が、
『ジミー・カーター』が、自室に戻ってから、
「奴を殺せ!」と怒鳴ったことを、明かしました。

そして、
アメリカ合衆国大統領『ジミー・カーター』は、

韓国大統領『朴正煕』の考える、
核開発を許す事が出来ないので、

アメリカ中央情報局(CIA)に、

どのような手段を使ってもいいので、

韓国の核兵器開発計画を中止するように、
指示を出したそうです。

そして、
韓国大統領『朴正煕』の暗殺事件前夜、

ニューヨークでのアジア協会主催の夕食会で、

暗殺事件が起きる5か月前まで、
韓国にいた駐韓米軍司令官だった『ジョン・ベッシー』は、

「アメリカの対韓関係が、
予想できない方向に発展していくであろう事は、
疑う余地がない。

今後、
特別な事件が起こったとしても、

現在の対韓関係を、
冷戦の遺産としてのみ捉えてはならず、

全てにおいて、
将来に大きな期待を、
もたらすものと考えるべきである。」と、

『朴正煕』の暗殺を、
予感していたような事を言ったそうです。

そして、
アメリカが懸念していた韓国の核兵器開発計画は、

『朴正煕』の暗殺によって、

挫折したそうです。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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