硫黄島最後の二人-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(18)
- 2020/01/15
- 05:05
1945年8月15日に、終戦していましたが、
硫黄島では、
日本が敗戦した事を知らず、
元海軍所属の日本兵の
24歳の『山蔭光福』兵長と、
年上ですが、階級は下になる、
34歳の『松戸利喜夫』上等水兵の2人は、
洞穴などに隠れて、暮らしてきたそうです。
ある時、
島に駐在しているアメリカ兵が捨てた、
雑誌『ライフ』を拾ったところ、
日本各地や東京の不忍池などで、
アメリカ兵と日本人女性が、
一緒にボートを漕いでいる写真や、
アメリカ兵と日本人女性が、
互いに相手の口にリンゴを持って、
食べさせあっている平和な写真などを見たので、
『山蔭光福』兵長は、
「チャンスがあれば、
アメリカ兵を叩こうと考えていたのに、
もしかすると、戦争は、終わったかもしれない。
戦争に出る時、
日本の全女性は、
最後まで、敵と銃で戦い、貞操を守ると聞いていた。
この写真を見ると、
日本女性は、アメリカ人たちと、
仲良くやっているみたいだ。
我々の苦しみも知らず…」と、つぶやいて、
激しいショックを受けたそうです。
当時、日本人は、「鬼畜米英」と言って、
敵のアメリカ人を、地獄の鬼と同じように思っていて、
捕まれば、皮を剥がれたり、焼かれて、
食われたりするという恐怖があり、
また、
「生きて虜囚の辱めを受けず。」という戦陣訓が頭にあり、
捕虜となるくらいなら、自決という考えでした。
そして、改めてアメリカ兵士たちを見ると、
上半身裸で車を運転したり、
ビールを飲みながら楽しそうに話しをしていたので、
「アメリカ人は、鬼ではなく、我々日本人と同じ人間だ。
何のために、
こんな穴ぐらの中で生活をしているのか?」と、
思いはじめたそうです。
そして、2人で話し合った結果、
アメリカ軍に、投降する事にしたそうです。
『山蔭光福』兵長と
『松戸利喜夫』上等水兵は、
蓄えた食べ物を狙ってくる
白いハツカネズミを捕まえて、ハリガネで飼育箱を作り、
『長太郎』と名付けて飼う事にし、
パンやビスケットを与えていると、
懐いてきて、餌をねだるようになったので、
可愛がっていたそうです。
そして、
初日の出を拝んでから、
『長太郎』の飼育箱のふたを開けました。
しかし、
『長太郎』は、逃げなかったそうです。
そのため、飼育箱をひっくり返して叩いて、
出したそうです。
でも、『長太郎』は、1m程離れてから、
2人を振り返り、じっと見つめていたそうです。
その後、森に帰って行ったそうです。
2人は、「『長太郎』は、かわいかったな。」と、
言って思い出に浸ったそうです。
その後、
岩穴の整理を始めると、
箱入りの新品の下着6ダース、米兵の夏服上下3着ずつ、
靴3足ずつ、たばこ100カートン、ウィスキー、ビール、
缶詰多数、コールドクリームやアスピリンなど各種の薬品、
蓄音機2台、レコード約50枚など、
引き揚げたアメリカ兵が捨てた物や、
失敬してきたものばかりでしたが、
あまりにも多くてビックリしたそうです。
そして、1949年1月2日、
アメリカ軍に投降しようとして、道に出ました。
アメリカ兵が乗った車に、3台出会いましたが、
誰も見向きもしなかったので、手を振ったりして、
合図を送ったそうです。
4台目で、やっと、
ジープに乗ることが出来て、
工場に連れて行かれ、降ろしされましたが、
そのまま放置されたそうです。
ふらついていると、イヌが追っかけてきたそうです。
そのイヌから逃げているうちに、
アメリカ人が、沢山いる建物群に行き着きました。
そこで、
英和辞書を渡され、
「軍人」「海軍」などの文字を指さし、
状況を把握してもらいました。
そして、まもなく、
1人の中国人の通訳が来ました。
そして、
「ジャングルボーイ、戦争は終わった。日本は敗戦した。
君らは捕虜だ。」と言われ、
本籍地、姓名、生年月日、官職階級などの質疑が行われ、
身体検査や、
隠れ住んでいた洞くつの調査が、行われたそうです。
後日、戦争の状況を知った『山蔭光福』兵長は、
「戦況は、相当に不利だったはずだ。
それなのに、日本政府は、
戦況を何故、一言も伝えてくれなかったのだろう。
その上、
戦況の不利どころか、
全く反対に、連合艦隊を信頼しろ!
特攻隊を信頼しろ!と言ってきた。
本当の事を伝えてくれれば、
尊い生命を散らすようなことはなかった…。
そして、多くの先輩同僚が玉砕し、
我々2人も、頑張って来た。
本当にくやしい。」と、心底思ったそうです。
そして、
1949年1月22日に、日本に帰還しました。
『松戸利喜夫』上等水兵は、郷里の千葉に帰り、
4人の子供と妻などの家族に、
温かく迎えられたそうです。
しかし、砲弾片を受けた左足が痛くなり、
歩行困難になったそうです。
そして、
焼夷弾に焼き払われ、
米兵に攻められるという悪夢を、
何度も見るようになり
しだいに不眠症になったそうです。
独身の『山蔭光福』兵長は、
郷里の花巻に帰ったそうです。
戦死していたと考えられていたので、
位牌に『俊興軒正龍義福清居士英霊』、
「昭和22年3月17日
於硫黄島戦死 海軍水兵長 行年22歳」と書かれていました。
そして、
警察予備隊に合格しましたが、
その後、入隊前に行われる身体検査で、
脱腸などの病気が見つかり、
不合格になりました。
そして、
「いまさら、警察予備隊に不合格だと、
村には帰れない。」と話したそうです。
その後、『山蔭光福』兵長は、
東京の亀戸の鋳物工場で働きましたが、
先輩格の同僚と合わず、退職したそうです。
当時、硫黄島は、
アメリカの統治下にあったので、
日本からの渡航は不可能な時代でした。
しかし、
『山蔭光福』兵長は、26歳になった時、
「硫黄島に、日記を忘れてきた。
自分の手記を完成させ、
出版するために、
どうしても、
硫黄島に、日記を取りに戻りたい。」と、
アメリカ軍に申し出たそうです。
そして、1949年5月7日に、
極東空軍司令部の歴史課員
『スチュアート・グリフィン』と共に、
硫黄島に行きました。
そして、『スチュアート・グリフィン』は、
ジープで、『山蔭光福』兵長が、
指示する場所に行きました。
そして、
帰国を控えた5月8日午前10時頃、
『山蔭光福』兵長は、
写真を撮ると言って、摺鉢山に行ったそうです。
『山蔭光福』兵長は、
摺鉢山旧噴火口から約90m離れた場所で、
突然、両手を挙げて、
「万歳!」と叫びながら、飛び降りたそうです。
『松戸利喜夫』上等水兵は、
「どうして彼が死を選んだのか、分からない。
約4年間、一緒にいて、難行苦行して、
無事に内地に帰れたのに、
またあの魔の島に行き、
自ら一命を捨てるとは、
本当に分からない。」と言ったそうです。
『山蔭光福』兵長の母親『山蔭ハル』は、
死んだことを知り、
「何で死んだのか判りません。」と言ったそうです。
でも、実は、『山蔭光福』兵長は、
硫黄島で生き残っていた元上官『大野利彦』へ、
「万一の場合を思い、お願いしておきます。
私が無事帰れない時は、
現在私の書いている原稿を、
出版して下さい。」と書いた文書を渡していました。
しかし、元上官『大野利彦』は、
「『山蔭光福』兵長が、身を投げた気持は、
あの恐ろしい戦争を体験したものだけが、
わかるのではないでしょうか?
私も、摺鉢山に登ったら、
死んでいった仲間などの事を思い出し、
飛びこまないという自信は、持てません。」と話しました。
調査してみると、
『山蔭光福』兵長は、日本に帰国した後、
「生きて返ってきて、申し訳ない。
硫黄島には、死んでいった仲間の方が多く、
生きているのは、私のほか、少数です。
そう思うとつらい。」と、親しい友人に言っていたそうです。
そして、
後日、『松戸利喜夫』上等水兵が投降時に、
50cmほどの穴を掘り埋めてきた4冊の日記が、
戦後、硫黄島の飛行場整備の時に、
偶然掘り出されました。
現在、
『山蔭光福』兵長の手記と、
『松戸利喜夫』上等水兵の見つかった日記を元に、
「硫黄島最後の二人」という本が、出版されています。
ちなみに、『山蔭光福』兵長が、入隊できなかった
警察予備隊は、朝鮮戦争が関係しています。
その話は、後日…、(続く)


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