硫黄島の戦い-『栗林忠道』(4)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(15)
- 2020/01/12
- 05:05
『栗林忠道』の要請により、硫黄島に来た、
『千田貞季』の混成第2旅団が担当した玉名山は、
アメリカ軍の硫黄島上陸部隊の矢面にたちました。
ちなみに、
硫黄島の戦いの中で、
玉名山攻略戦が、
一番の激戦だったと言われています。
玉名山攻略戦では、
『クリフトン・ケーツ』海兵少将が率いる、
米海兵隊第4海兵師団(師団長)に、
8日間で、約2880人余りの死者が出たそうです。
しかし、
アメリカ海兵隊が、次から次に来る中で、
次第に、『千田貞季』の混成第2旅団が、
追い詰められていきました。
『千田貞季』は、重傷者が多く、
限界にきていたので、『栗林忠道』に、
玉砕攻撃の許可を求めたそうです。
しかし、
再三に渡って玉砕を禁じる命令が出され、
『栗林忠道』のいる兵団司令部への合流が、
命じられました。
『千田貞季』は、傷ついた427人の兵士を率いて、
アメリカ兵に、
約800人の死者を出す被害を与えるなど、
戦闘を繰り返しつつ、
『栗林忠道』のいる兵団司令部へと向かいましたが、
到着直前に攻撃を受け壊滅し、
命運尽きた『千田貞季』は、3月7日、
兵団司令部まで僅か300mの所で、
自決したそうです。
ちなみに、
玉名山及びその周辺の戦いにより、
アメリカ軍死者は、約3600人だったそうです。
その後、アメリカ軍に、
玉名山の壕に潜んでいた日本軍が発見され、
火炎放射器の攻撃により、約150人近くが、
一挙に焼き殺されたそうです。
『栗林忠道』は、報告により、
『千田貞季』の死を知り、
兵団の総攻撃を決意したそうです。
そして、
1945年3月16日、
『栗林忠道』は、
「国の為 重き努を 果し得で
矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
意訳:国の為に硫黄島を守っていましたが、
武器弾薬も無くなったので、
残念ですが、このまま散っていきます。」と、
電文を打ったそうです。
電文は、海軍大湊通信隊によって、傍受され、
通信員は泣きながら、
この電文を、大本営に送付したそうです。
そして、『栗林忠道』は、階級章を外し、
抜刀し、残存将兵400人の先頭に立ち、
米軍が占領している飛行場に突入し、
アメリカ兵170人を殺傷し、
右大腿部に重傷を負い、
その場で自決したそうです。
満53歳だったそうです。
「硫黄島の占領は、5日で終わる。」と、
豪語してた「マッド(狂人)・スミス」こと、
『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、
後日、
日本の優れた防衛戦術に敬意を表するため、
『栗林忠道』の遺体を埋葬しようと、
色々な所を探しましたが、
遺体は、見つからなかったそうです。
後日、
ギルバート・マーシャル諸島の戦い、
サイパンの戦いの上陸軍を指揮していた、
『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、
「われわれを、
ここまで強くしてくれたのは、日本陸軍だ。
『栗林忠道』のような指揮官が、
日本軍に、何人もいたら、
第二次世界大戦は、
どうなっていたか?分からない。
第二次世界大戦の敵指揮官の中で、
『栗林忠道』は、
もっとも勇敢であった。」 と言っていいます。
ちなみに、『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、
硫黄島の戦いで、
アメリカ軍の損害が、
日本軍の損害を上回ったという事で、
責任をとらされたそうです。
1945年3月26日、
日本軍は、戦闘自体は、敗北しましたが、
日本軍は、小さな硫黄島を、
3倍以上の兵力、
絶対的な制海権・制空権を持ち、
予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、
圧倒的に優勢であったアメリカの攻撃に対し、
最後まで将兵の士気を低下させずに、
アメリカの5日で制圧するという予想を上回る、
1か月半も防衛しました。
日本軍の兵士数は、
22、786人(守備兵力20,933人)でしたが、
20,129人が、戦死、行方不明になったそうです。
ちなみに、
アメリカ軍の兵士数は、
約110、000人でしたが、
戦死6821人、戦傷21、865人だったそうです。
ちなみに、
第二次世界大戦中の米海兵隊に、
与えられた名誉勲章の1/4以上が、
硫黄島上陸部隊の将兵に、与えられているそうです。
余談になりますが、
毎日新聞のコラムによると、
1968年6月26日 、
アメリカに占領されていた硫黄島が、
日本に返還される日、
『栗林忠道』が、妻『栗林義井』の夢枕に立たれ、
「ただいま。 今、帰ったよ。」と声が聞こえ、
目が覚めたそうです。
妻『栗林義井』は、
「必ず帰ってくるという約束を果たしてくれた。」と、
涙を流したそうです。
硫黄島の戦いで、
第4海兵師団の中隊長として従軍した
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
日本軍と戦った経験から、
日本に対しては、
憎悪の感情を抱いていたそうです。
しかし、朝鮮戦争の時、
軍需物資調達任務を任された際に、
日本人と接する中で、
日本人の心づかいなどに触れているうちに、
憎悪の感情が薄れていき、
親日派となり、
1985年に、軍を退役してから、
旧日本軍人との交流活動を始め、
1995年に、『栗林忠道』の妻『栗林義井』から、
「きのうの敵は、きょうの友。」とのメッセージを受け、
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
「戦争を二度と繰り返さないように、
共に協力せねばならない。」と思ったそうです。
そして、2015年に、
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
『栗林忠道』の孫『新藤義孝』と握手を交わしたそうです。
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
「硫黄島の双方の戦死者を追悼し、栄誉を称える。」と言って、
硫黄島で開催する日米合同慰霊祭に、
頻繁に出席しているそうです。(続く)


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