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硫黄島の戦い-『栗林忠道』(4)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(15)

そして、
『栗林忠道』の要請により、硫黄島に来た、

『千田貞季』の混成第2旅団が担当した玉名山は、

アメリカ軍の硫黄島上陸部隊の矢面にたちました。

ちなみに、
硫黄島の戦いの中で、

玉名山攻略戦が、

一番の激戦だったと言われています。

玉名山攻略戦では、
『クリフトン・ケーツ』海兵少将が率いる、
米海兵隊第4海兵師団(師団長)に、
8日間で、約2880人余りの死者が出たそうです。

しかし、
アメリカ海兵隊が、次から次に来る中で、
次第に、『千田貞季』の混成第2旅団が、
追い詰められていきました。

『千田貞季』は、重傷者が多く、
限界にきていたので、『栗林忠道』に、
玉砕攻撃の許可を求めたそうです。

しかし、
再三に渡って玉砕を禁じる命令が出され、
『栗林忠道』のいる兵団司令部への合流が、
命じられました。

『千田貞季』は、傷ついた427人の兵士を率いて、
アメリカ兵に、
約800人の死者を出す被害を与えるなど、
戦闘を繰り返しつつ、

『栗林忠道』のいる兵団司令部へと向かいましたが、
到着直前に攻撃を受け壊滅し、

命運尽きた『千田貞季』は、3月7日、
兵団司令部まで僅か300mの所で、
自決したそうです。

ちなみに、
玉名山及びその周辺の戦いにより、
アメリカ軍死者は、約3600人だったそうです。

その後、アメリカ軍に、
玉名山の壕に潜んでいた日本軍が発見され、
火炎放射器の攻撃により、約150人近くが、
一挙に焼き殺されたそうです。

『栗林忠道』は、報告により、
『千田貞季』の死を知り、
兵団の総攻撃を決意したそうです。

そして、
1945年3月16日、
『栗林忠道』は、

「国の為 重き努を 果し得で
矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

意訳:国の為に硫黄島を守っていましたが、
武器弾薬も無くなったので、

残念ですが、このまま散っていきます。」と、

電文を打ったそうです。

電文は、海軍大湊通信隊によって、傍受され、

通信員は泣きながら、
この電文を、大本営に送付したそうです。

そして、『栗林忠道』は、階級章を外し、
抜刀し、残存将兵400人の先頭に立ち、
米軍が占領している飛行場に突入し、

アメリカ兵170人を殺傷し、
右大腿部に重傷を負い、
その場で自決したそうです。
満53歳だったそうです。

「硫黄島の占領は、5日で終わる。」と、
豪語してた「マッド(狂人)・スミス」こと、
『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、

後日、
日本の優れた防衛戦術に敬意を表するため、
『栗林忠道』の遺体を埋葬しようと、
色々な所を探しましたが、
遺体は、見つからなかったそうです。

後日、
ギルバート・マーシャル諸島の戦い、
サイパンの戦いの上陸軍を指揮していた、
『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、
「われわれを、
ここまで強くしてくれたのは、日本陸軍だ。

『栗林忠道』のような指揮官が、
日本軍に、何人もいたら、
第二次世界大戦は、
どうなっていたか?分からない。

第二次世界大戦の敵指揮官の中で、
『栗林忠道』は、
もっとも勇敢であった。」 と言っていいます。

ちなみに、『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、
硫黄島の戦いで、
アメリカ軍の損害が、
日本軍の損害を上回ったという事で、
責任をとらされたそうです。

1945年3月26日、
日本軍は、戦闘自体は、敗北しましたが、

日本軍は、小さな硫黄島を、

3倍以上の兵力、
絶対的な制海権・制空権を持ち、
予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、
圧倒的に優勢であったアメリカの攻撃に対し、

最後まで将兵の士気を低下させずに、

アメリカの5日で制圧するという予想を上回る、
1か月半も防衛しました。

日本軍の兵士数は、
22、786人(守備兵力20,933人)でしたが、

20,129人が、戦死、行方不明になったそうです。

ちなみに、
アメリカ軍の兵士数は、
約110、000人でしたが、

戦死6821人、戦傷21、865人だったそうです。

ちなみに、
第二次世界大戦中の米海兵隊に、
与えられた名誉勲章の1/4以上が、

硫黄島上陸部隊の将兵に、与えられているそうです。

余談になりますが、
毎日新聞のコラムによると、

1968年6月26日 、
アメリカに占領されていた硫黄島が、
日本に返還される日、
『栗林忠道』が、妻『栗林義井』の夢枕に立たれ、
「ただいま。 今、帰ったよ。」と声が聞こえ、
目が覚めたそうです。

妻『栗林義井』は、
「必ず帰ってくるという約束を果たしてくれた。」と、
涙を流したそうです。

硫黄島の戦いで、
第4海兵師団の中隊長として従軍した
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
日本軍と戦った経験から、
日本に対しては、
憎悪の感情を抱いていたそうです。

しかし、朝鮮戦争の時、
軍需物資調達任務を任された際に、
日本人と接する中で、
日本人の心づかいなどに触れているうちに、

憎悪の感情が薄れていき、
親日派となり、

1985年に、軍を退役してから、
旧日本軍人との交流活動を始め、

1995年に、『栗林忠道』の妻『栗林義井』から、
「きのうの敵は、きょうの友。」とのメッセージを受け、

『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
「戦争を二度と繰り返さないように、
共に協力せねばならない。」と思ったそうです。

そして、2015年に、
『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
『栗林忠道』の孫『新藤義孝』と握手を交わしたそうです。

『ローレンス・フォンテイン・スノーデン』は、
「硫黄島の双方の戦死者を追悼し、栄誉を称える。」と言って、
硫黄島で開催する日米合同慰霊祭に、
頻繁に出席しているそうです。(続く)



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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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