『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(9)
- 2020/01/04
- 05:05
ナチス体制下のドイツで開かれた、
1936年のベルリンオリンピックでした。
その時、『西竹一(バロン西)』男爵は、
ひどい風邪を引いて、40℃近い高熱がありました。
そのため、
薬で熱を下げて、参加しました。
そして、『西竹一(バロン西)』男爵は、
念願だった国産のオス馬『アスコット』と共に、
「総合馬術」競技に挑んだ結果、12位でした。
『西竹一(バロン西)』男爵は、
国産馬でもここまで活躍できると確信し、
満足しました。
そして、
閉会式直前の「大障害飛越」が行われ、
『西竹一(バロン西)』男爵は、
17歳になっていた『ウラヌス』と参加をしましたが、
高齢だったのか、良い成績を残せず、
落馬し棄権しました。
馬術の参加選手は、
前回の4カ国12選手から、
18カ国54選手にまで増えていましたが、
最終的に、日本の馬術の順位は、6位でした。
この時、
『西竹一(バロン西)』男爵は、妻『西武子』に、
「ベストを尽くしたので、悔いは無い。」と語っています。
しかし、
前回の栄光があったので、
6位も立派なのですが、
日本に帰国しても、歓迎はされませんでした。
ちなみに、
この時のスターは、平泳ぎで、
金を獲得した『前畑秀子』でした。
『前畑秀子』の200m平泳ぎのラジオ中継を、
実況したNHKの『河西三省』アナウンサーが、
興奮のあまり、
「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と、20回以上も絶叫し、
ラジオ中継を聴いていた日本人を熱狂させたのは、
ものすごく有名です。
この時のベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』をめぐり、
『西竹一(バロン西)』男爵は、軍部と対立したそうです。
この映画には、『西竹一(バロン西)』男爵が、
『アスコット』と供に、障害の沼にはまり、
泥まみれになりつつ、奮闘する場面が映っていました。
醜態を晒さないで欲しいと、軍部はカットを依頼しました。
『西竹一(バロン西)』男爵は、
人馬ありのままの苦闘を、見せてこそではないか、
と考え意見は対立しました。
そして、『西竹一(バロン西)』男爵は、結果についても、
上位を取らないと意味が無いという陸軍に対し、
6位入賞は、決して恥ずべき結果ではない!と主張しました。
元々、進歩的な考えで、
周囲の人々が、丸坊主だったのに、
髪型が長髪だったり、
服、帽子、靴が特別製だったり、
天皇を神と思っていなかったりと、
『西竹一(バロン西)』男爵の自由奔放な振る舞いは、
陸軍から煙たがられていました。
しかし、
ロサンゼルス五輪の金メダリストという、
利用価値があったので、見逃されて来たのでした。
上層部は、
『西竹一(バロン西)』男爵が、
ベルリン五輪でメダルを獲得出来なかったのに、
陸軍を批判しているのでは?と、
考えるようになり、
『西竹一(バロン西)』男爵は、
不要だと考えるようになりました。
そのため、
『西竹一(バロン西)』男爵は、
左遷対象となっていましました。(続く)


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