三楽犬の入替え
- 2019/12/25
- 05:05
武将としても学者としても、
一流で有名だった『太田道灌』の曾孫で、
岩槻(岩付)城の城主だった
『太田資正(三楽斎入道道誉)(源五郎)』は、
軍用犬を使ったことで知られています。
1522年に生まれた『太田資正』は、
居城である岩付城と、属城としていた松山城に、
それぞれの城で50匹、
合計100匹の犬を飼っていたそうです。
『太田資正』は、大変な犬好きで、
犬とじゃれあう事が多く、
家臣たちは「うつけ者の殿様」と、
陰口を叩いていたそうです。
そして、
『太田資正』は、考えがあり、
岩付城で育てた犬を松山城に移し、
松山城で育てた犬を岩付城に移したそうです。
そして、
「有事の際には、犬を解き放て」と
家臣たちに言いました。
そして、それから間もなく、
1562年から1563年2月にかけて、
『太田資正』が岩付城に居る時に、
『北条氏康』が、
松山城に攻め込んで来ました。
松山城から岩付城に援軍を頼むための使者は、
城から出た途端、
『北条氏康』の忍者集団の風魔一党によって、
全員捕殺され、松山城は風前の灯火となったそうです。
そこで、犬を解き放つ事を思い出した松山城の家臣達は、
10頭の犬に、
援軍を求める文書をいれた竹筒を、
首につけて解き放ったそうです。
そして、松山城から解き放たれた犬たちは、
風魔一党の監視の目をくぐって、
『太田資正』のいる岩付城へと駆け込んだそうです。
急を知った『太田資正』は、松山城に救援を送り、
北条勢を、駆逐したそうです。
その後も犬達は、
連絡網として、活躍したそうです。
風魔一党は、
犬を伝令に使うととは考えていなかったので、
犬を、警戒していなかったそうです。
そのため、
風魔一党は、人間の使者を討っているのに、
連絡網を断ち切ることが、出来なかったので、
不思議に思ったそうです。
後日、人々は、
「『太田資正』は、曽祖父『太田道灌』に劣らない名将だ。」と、
褒め称えたそうです。
しかし、
『武田信玄』が、『北条氏康』に、加勢すると、
戦力は、けた違いに強くなり、
松山城が、窮地に陥ったそうです。
そのため、自力だけでの戦いは無理と考え、
『上杉謙信』に、援軍を頼みました。
しかし、『上杉謙信』の到着が遅れたので、
松山城は、陥落したそうです。
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