凍死する時(3)-八甲田
- 2019/12/17
- 05:05
冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、
さらなる厳寒地での戦いとなる
対ロシア戦に向けた軍事訓練を行う事になりました。
1902年、1月、
青森歩兵第5連隊は、
『神成文吉』大尉をリーダーとして、
青森市街から八甲田山の田代新湯を通り、
三本木、八戸に向かう、
雪中行軍の軍事訓練を行う事になりました。
天候が荒れていたので、
地元村民が行軍の中止を進言し、
もし、どうしても行くならと案内役を申し出ました。
すると、将校の1人が、
「我々には、お前らより優れた地図と方位磁石がある。
案内人を雇えとは、お金が欲しいからだろう?
案内人などいらぬ。」と、言って、案内人を雇いませんでした。
しかし、猛吹雪のため、
青森歩兵第5連隊は、道が分からなくなり、
遭難したそうです。
すると、猛吹雪の中、
『今泉三太郎』見習士官が、
「『神成文吉』大尉殿!
暑いので、一度川に入ってから、
連隊に救助依頼をしてまいります。」と言って、
服を脱ぎ始めました。
『神成文吉』大尉は驚いて、制止しましたが、
制止を振り切り、
『今泉三太郎』見習士官は、
川に飛び込み、
どんどん遠くに、泳いでいったそうです。
この行為は、矛盾脱衣だと思われます。
その後、
『今泉三太郎』見習士官は、
下流で遺体となって発見されたそうです。
『神成文吉』大尉は、
「天はわれわれを見捨てた。」と叫びました。
この発言で、多くの兵士の士気が下がったそうです。
そして、青森歩兵第5連隊の
軍事訓練への参加者210人中199人が、
死亡した世界最大級の山岳遭難事故となりました。
同じ頃、
弘前歩兵第31連隊は、『福島泰蔵』大尉をリーダーとして、
弘前より、八甲田山を通り青森に向かうという、
雪中行軍の軍事訓練を行っていました。
弘前歩兵第31連隊は、
7人のマタギたちに案内人を依頼しました。
マタギたちは、天候が荒れていたので、
計画は中止するよう進言しましたが、
『福島泰蔵』大尉は、
「我々は、雪と戦っているのではない。
ロシアと戦っているのだ。」と言って、
そのまま計画を進めたそうです。
ちなみに、
両連隊は、お互いの雪中行軍予定を、
知らされずに、計画を立てたそうです。
吹雪がすごいので、
弘前歩兵第31連隊は、雪穴を掘り、
食事休憩などがありましたが、
マタギたちには、食事休憩をとらせず、
進行方向の探索をさせたので、
フラフラになったそうです。
弘前歩兵第31連隊が行軍していると、
ぼーとした灯りとザッザツと音が聞こえて来たので、
その方向を見ると、
多くの人たちが、歩いていました。
弘前歩兵第31連隊は、誰だ?と思っていると、
突然人影が消えたそうです。
ちなみに、
弘前歩兵第31連隊は、
青森歩兵第5連隊が遭難している事を知りませんでした。
八甲田山の青森市側の出口の田茂木野集落が、
見えて来た所で、
『福島泰蔵』大尉は、
「ここで見た事は、他言するな。
もししたら、牢獄に入れる。
ここからは、案内はいらぬ。」と言って、
汽車賃を渡しました。
そして、マタギたちは、
田茂木野集落に着き、
宿泊を依頼すると、
青森歩兵第5連隊の
遭難救助の兵隊たちがいるので、
満杯ですと言って、断られたそうです。
その時に、
青森歩兵第5連隊の遭難を知ったそうです。
そして、
疲れてヨロヨロでしたが、
そのまま、青森市に向かい、
浦町駅より汽車に乗ったそうです。
青森歩兵第5連隊は、
ほぼ全滅状態だったのに、
弘前歩兵第31連隊は、
無事だったので、英雄扱いされたそうです。
マタギたちの家族は、
「山の神様は、命をとらずに帰してくれた。」と喜んだそうです。
しかし、マタギたちは、
凍傷が酷く、手足が壊死したりして、
その後、凍傷が原因で、
死亡した人もいたそうです。
ちなみに、
行軍した兵士たちは、補償されましたが、
マタギたちは、口止めされていたので、
補償は、無かったそうです。(続く)
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