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マッターホルンで見た不思議な十字架(8)

1871年、
『エドワード・ウィンパー』は、
自分に対する批判に対する回答と弁明を兼ね、
マッターホルンの体験記を、
自分で挿絵を描いた「アルプス登攀記」を書きました。

批判も多かったそうですが、
大ベストセラーになったそうです。

そして、
『エドワード・ウィンパー』は、

下山直後は、

「『タウクヴァルター』父子に、
責任はない。」と言っていたのが、

時間がたつと次第に意見が変わり、

「下山の詳細をあえて述べようとは思わない。

ただ、事故後、
これでもう終わりかと思う事が続いた。

『タウクヴァルター』父子は、
完全に取り乱して子どものように泣きじゃくり、
あまりに震えたので、

私も危うく他の者たちと同じ運命をたどるところだった。

悲劇の責任は一切自分にない。

下山時は、スケッチなどして忙しく、

ロープの選択などは、ガイドに全て任せていたし、

自分がロープをつける前に、下山が始まったので、

ロープを確認する時間が無く、
急いでロープをつけて下山した。

切れたロープは、
ガイドの『タウクヴァルター』父子が、
勝手に選択した。

でも、そのロープは、
自分が用意した3本のロープの中で、
最も弱いものでした。

でも、
そのロープは、体を結びあうためではなく、

多くのロープを、岩にくくりつけたまま
残してこなくてはならなくなった場合に、
使おうとしていたものだった。

何故、そのロープを使ったのかは知らないが、

ガイドを信頼していたので、
そのようなロープを使うとは、考えもしなかった。」と、

『タウクヴァルター』父子に、
責任があるように言うようになりました。

その結果、『エドワード・ウィンパー』は、
都合の良い物語に助けられて、英雄となりました。

『タウクヴァルター』父子は、

スイスドイツ語の方言が母国語で、

英語は、片言しかしゃべれず、

また、地元のツェルマット村は、
英語が母国語の英国人たちで、
潤っていたののも関係し、

反論する事も出来ず、

言われ放題で、

『タウクヴァルター』父子の評判は、
さらに悪化し、

『ペーター・タウクヴァルター・シニア』は、
そのまま現地にいることが困難になり、
アメリカに移住したそうです。

その後、アメリカに移住し、
英語を自由に話せるようになった
『タウクヴァルター・ジュニア』が、

「『エドワード・ウィンパー』が言っていることは、
間違っている。

確かに、事故後、全員、しばらくは恐怖で動けなかった。

でも、本当の事を言うと、

おびえて取り乱し、
震えて、一歩も踏み出すことができなかったのは、
『エドワード・ウィンパー』だ。

父が前を行き、始終振り向いては、
『エドワード・ウィンパー』の足を岩棚に置いた。

『エドワード・ウィンパー』のために、
何度となく立ち止まり、休まなければならなかった。

事故後、気が動転したのは、
『エドワード・ウィンパー』だった。」と言いました。

その後、『タウクヴァルター』父子の子孫や
地元のツェルマット村の人々は、

『タウクヴァルター』父子の名誉回復のため、

現在も真実を、マスコミや劇などを通じ、
真実を世間に、公表し続けているそうです。

その後、『エドワード・ウィンパー』は、
『タウクヴァルター』父子の事は、
気にかけなかったそうです。

マッターホルン登頂の時に、
裏切ったライバル『ジャン・アントワーヌ・カレル』とは、

基本的に気が合っていたらしく、

その後、裏切りを許し、

ライバルだった『ジャン・アントワーヌ・カレル』と一緒に、
マッターホルンに再登頂したり、

そして、
1880年1月4日、
地球の中心から最も遠い、
アンデス山脈のチンボラソの世界初登頂も、
ライバルだった『ジャン・アントワーヌ・カレル』と一緒に、
成功したそうです。

その後、
『エドワード・ウィンパー』は、講演旅行、執筆に没頭し、

1911年、71歳の時に、
旅先のフランスのモンブラン山群のふもとの町にある、
シャモニー=モン=ブランの旅館で、

心臓麻痺で亡くなったそうです。

そして、シャモニーの墓地に埋葬されたそうです。

『エドワード・ウィンパー』は、
最後の著書に、

「勇気と力だけがあっても、
慎重さを欠いていたら、それは無に等しい。

一瞬の不注意が、
一生の幸福を台無しにしかねない。」と書きました。

ちなみに、
マッターホルン氷河から、
『チャールズ・ハドソン』牧師、『ダグラス・ハドウ』、
『ミシェル・クロ』の3人の遺体は発見され、
ツェルマットの墓地に埋葬されたそうです。

しかし、
『フランシス・ダグラス』卿の遺体は、
今も見つかっていないそうです。

1865年から現在まで、
スイス側からの登山で、約500人、
イタリア側では、薬200人の登山家が、
マッターホルンで命を落としたそうです。

死亡事故を減らすため、
1980年代にマッターホルンの尾根に、
固定ロープが設置されたそうです。

理想的な天候の日は、
1日で、300人以上の登山家が、
マッターホルンの登頂に挑む事もあるそうです。

毎年、約3500人の登山家が挑戦しますが、
65%以上は失敗するそうです。

ちなみに、
以前、オーストラリアで、
ウルル(旧称エアーズ・ロック)を登ったことがありますが、
登る前に、ガイドからの説明で、
転落事故死があると聞き、

その時は、

ツアー客で、
母国語が英語ではないアジア人は、自分1人で、

他は欧米人だったので、

日本語は通じないので、

日本語の案内板があったので、
穴が空くほど見て…、



危険な時、「ヘルプ!」以外の英語を、
とっさに話せるか不安になりました。

確かに、
ウルル(旧称エアーズ・ロック)の前半の最大斜度は、
約47度の急勾配で、
後半は鎖につかまりながら、
約150mのほぼ垂直な壁を登ります。

岩肌は、滑りやすいので、注意が必要そうでした。

でも、
ツアーに行く途中、車の中で、

母国語が英語ではないフランス人とスイス人家族がいたので、

お互いが片言英語だったので、話が通じやすく、
仲の良くなったので、

その人たちから離れないようにして、
お互いに励まして、休みながら、ゆっくりと登りました。

そして、
無事に着いた頂上は、風が強く、飛ばされそうでした。

ウルル(旧称エアーズ・ロック)は、景色はとても良く、
忘れられない風景でした。

ちなみに、2019年10月26日より、
アボリジニのアナング族の聖地という事が考慮され、



ウルル(旧称エアーズ・ロック)が、
登山禁止になったそうです。

元々、
降雨、高温、強風等の様々な理由で、
登山禁止となる事が多く、

登山出来きる可能性は、約16%だったそうです。

約16%、現在は登山できない、という事を考えると、

登山できたという事は、貴重な体験でした。
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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