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糸脈(2)

糸脈で思い出されるのは、
979年に生まれた中国の宋の医師『吳夲(保生大帝)』です。

伝説によると、
『吳夲(保生大帝)』は、通常の診察はもちろん、
糸脈も出来て、評判が良かったそうです。

宋の『仁宗』の母が病気にかかった時、
色々な医師が治療しても治らなかったので、
『吳夲(保生大帝)』が呼ばれました。

しかし、『仁宗』は、『吳夲(保生大帝)』の糸脈に懐疑的だったので、
診察の前に、『吳夲(保生大帝)』を、試す事にしたそうです。

まず、
糸の端を猫の足に縛り付け、
糸脈診断を受けたそうです。

そして、『仁宗』が渡された薬包みを開けてみると…、

細かく刻んだかつお節が入っていたそうです。

そして、
『仁宗』は、信頼し、母の治療をしてもらい、
完治したそうです。

『吳夲(保生大帝)』は、1036年死亡しましたが、
『吳夲(保生大帝)』の神前でちょっとした儀式と祈祷をすれば、
病気が治ったので、医学の神『医霊真人』と呼ばれるようになり、
さらに、豊作祈願、功名祈願も叶える多機能型の神となったそうです。

ちなみに、『大原富枝』の小説「婉という女」で、
『岩下志麻 』主演で映画にもなったので、
知っている人も多いと思いますが、

日本で最初の女医と言われている『野中婉(婉女)』も
糸脈をしたとも言われています。

1661年、『野中婉(婉女)』は、
土佐藩主『山内一豊』の妹『合』の孫の
土佐藩家老で儒学者の『野中兼山(良継)』の
4女として生まれました。

『野中兼山(良継)』は、儒学を政策の根本思想とし、
治水・新田開発・港湾整備など実務に、
目覚ましい成果を上げましたが、
その一方で重い税負担や苛酷な夫役が怨みを買い、

政敵『孕石元政』により、失脚し死亡したので、

1664年、『野中兼山』の遺族は、罪を着せられ、
『野中兼山』の妾4人、『野中兼山』の子8人、
譜代の家来を加えた22人は、

宿毛の竹矢来に囲まれた人里離れた山峡の一軒屋で、

『山内左衛門』預けにて、昼夜獄吏に見張られ、
外界と完全に接触を断たれ、

幽閉されたそうです。

幽閉された当時、『野中婉(婉女)』は、4歳でした。

『野中兼山』を尊敬していた儒学者『谷秦山』が、

『野中婉(婉女)』の兄『野中繼業(希四郎)』の才能を知り、
才能を埋もれさせるにはもったいないと思い、
文通で、叱咤激励しながら、
儒学や詩歌、医学の情報提供したそうです。

『野中繼業(希四郎)』は、幽閉中に死亡しましたが、
『野中婉(婉女)』は、2歳年下の『谷秦山』と文通を通じて、
学問を学んだそうです。

監視していた『山内左衛門』のお抱え医師『安田道玄』も同情し、
『野中婉(婉女)』に医学を教授したそうです。

そして、
1703年、約40年間の長きにわたった幽閉が解けた時、
『野中兼山』の遺族12人で、生き残っていたのは、
『野中兼山』の妾で、『野中婉(婉女)』の母『池』氏と、
『野中婉(婉女)』、『野中寛』、『野中将』の3姉妹だけでした。

『野中婉(婉女)』は、釈放後に、
「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば 
のこる梢の 涙なりけり」と句を読んだそうです。

『野中婉(婉女)』の母『池』氏は、幽閉が解けた翌年死亡し、
『野中寛』と『野中将』は、宿毛に永住する事にしました。

『野中婉(婉女)』は、元住んでいた高知城下へと戻ると、
旧臣の井口家を頼り、
土佐郡城西朝倉の多寳院に住まいを定め、
漢方医として開業したそうです。

通常の診断もしましたが、

糸脈という独特の診断方法も行い、
その方法は、
患者の手首に糸を巻いて障子の穴に通し、
その端を握って診断したと言われています。

その診察によって調合した薬が、よく効いたので、
「おえんさんの糸脈」と言われるようになり、
世間の評判になったそうです。

ちなみに、『野中婉(婉女)』は、
実際には、糸脈はしなかったとも言われています。

ある時、松の木に、コウノトリが巣で卵を産んだそうです。

すると、近所の子どもたちがその卵を取って、
面白半分に焼いたそうです。

すると、親鳥が鳴き騒ぎました。

『野中婉(婉女)』は、それを見て、
急いで、子どもたちの所に行き、
少しばかりの銭を与えて、
半分焼けた卵を樹上の巣に戻しました。

すると、親鳥は、草を運んできて卵を包んだそうです。

そして、しばらくすると、
卵から、無事にひな鳥が生まれたそうです。

『野中婉(婉女)』は、卵を包んでいた草に霊異を感じ、
それを原料として薬を調合したところ、
さらに、諸病によく効き、評判も上がったそうです。

基本、診察料は安かったのですが、
生活困窮者には無料で診察した事もあったそうです。

ただし、
一族を滅ぼした藩を許す事が出来なかったので、
藩主の権勢に生涯屈せず生き、
藩の役人の診察は断っていたそうです。

また、駕篭にて往診の途中、
藩主の若君の乗物に出会った時、
下駕篭せずにそのまま進んだそうです。

ちなみに、
『野中婉(婉女)』に文通で、
学問を指導していた『谷泰山』は、
1707年の政変で破れ蟄居し、
約10年に及ぶ幽閉生活の後、
1718年、55歳で死亡したそうです。

そして、沢山の人を治療し、
1726年、『野中婉(婉女)』は、
人々に惜しまれながら、死亡したそうです。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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