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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(3)

1945年2月、
幕僚と部隊長、飛行長ら、
約80人が出席した連合艦隊主催の

「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、
連合艦隊方針及び
各部隊戦闘部署について」の作戦会議が、
開かれました。

その時、
熟練搭乗員不足、燃料不足、物資不足、
飛行機不足に対する対策などが、話し合われ、

最終的には、

練習機「九十三敷中間練習機」で、

特攻する事が決まりました。

すると、会議の中では最若輩で末席にいた

夜間攻撃専門の

芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(29歳)が、



「練習機を特攻に使用すると言いますが、
実際の所、掛け声だけでは、
敵防衛陣を突破できません。」と言うと、

上官たちは、

「第一線の少壮士官の言とは思えぬ。

必死尽忠の士が、空をおおって進撃する時、
何者がこれをさえぎるか! 

夜間攻撃で、少し成果を出したからと言って、
いい気になるな!

下っ端の若造が、何を偉そうに言うか!」と怒りました。

しかし、
芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐は、
ひるまず続けて、

「ここに居いる方々は、指揮官、幕僚であって、
みずから突入する人がいません。

必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、
敵の弾幕をどれだけくぐったというのですか? 

失礼ながら私は、
回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。

今の戦局に、あなた方は、死を賭しておられますか?

飛行機の不足を、
特攻戦法の理由の一つにあげておられるが、

先の機動部隊来襲の時、
分散擬装を怠って、列線に並べたまま、
いたずらに焼かれた部隊が、
多いのではないですか?

また、燃料不足で訓練が思うにまかせず、
搭乗員の練度低下を理由の一つにしておいでだが、

指導上の創意工夫が足りないのではないですか?

私のところでは、
全員が死を覚悟で教育しているので、
みな夜間洋上進撃が可能です。

しっかりとした教育をすれば、
敵戦闘機群に肉薄し、戦うことが出来ます。

性能が劣る練習機が何千機が特攻しても、
二十重三十重と待ち受けるグラマンに、
ことごとく撃墜され、
戦果をあげることが出来ないのは明白です。

練習機による特攻を推進なさるなら、

2千機の練習機を駆り出す前に、

ここにいらっしゃる方々が、

練習機に乗って攻撃してみるといいでしょう。

私が零戦1機で、全部、撃ち落として見せます。

搭乗員の中に、死を恐れている者はいません。

ただ、
死を賭するなら、それだけの目的と意義が要ります。

皆さんは、燃料不足と搭乗員の訓練不足のため、
特攻と言いますが、

指導訓練の工夫が足りないのではないでしょうか。

艦隊司令部は、
芙蓉部隊の若者たちの必死の訓練を見て頂きたい。

私の所では総飛行時間200時間の零戦パイロットでも皆、
夜間洋上進撃可能です。

同じ死ぬなら、精神論だけではなく、
効果が確実な手段を講じて下さい。

大事な部下に、
死刑のような無茶な命令は下せない。」と言うと、

その通りなので、反対意見が無く、
全員黙りました。

そして、さらに、
芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐は、
熟練者による夜襲戦法の有効性を主張しました。

そして、会議の最後に、
第五航空艦隊司令長官『宇垣纏』は、
芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐の肩を叩いて、
「お前のやり方でやれ。」と言ったそうです。

ちなみに、以前書いた通り、
後日、第五航空艦隊司令長官『宇垣纏』は、
日本で、最後の特攻を行いました。

その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外され、

終戦まで沖縄で、夜間襲撃を続け、効果を出し続け、
決して部下に特攻をさせなかったそうです。

そして、戦後、『美濃部正』は航空自衛隊に入隊しました。

ある時、
「特攻に対して批判的だった一番の理由は?」と聞かれた時、

『美濃部正』は、

「日本海軍は伝統的に、
「指揮官先頭」を標榜していながら、

司令、飛行長、隊長といった指揮官が、

特攻から除外されていたことであった。」と言っています。

しかし、戦後、特攻について聞かれた時、

「特攻戦法を批判する人がいるが、
それは戦いの勝ち負けを度外視した、
戦後の迎合的統率理念にすぎない。

当時の軍籍に身を置いた者にとって、
負けてよいという戦法は、論外である。

上層部は、特攻という馬鹿な事を、何故考え出したのか?

若い搭乗員に特攻作戦の命令を下すことは、
できなかった。

それを下した瞬間に、
私は何の権利もなしに、
彼らの人生を終わらせてしまうからだ。

しかし、不可能を可能とすべき代案なき限り、
特攻もまたやむをえないと今でも思う。

特攻は、戦機に乗じ必要な時もあると思う。
しかし、常用するは戦闘の邪道だ。

戦いの厳しさは、ヒューマニズムで、
批判できるほど生易しいものでも、
簡単な物でもない。」と言っています。

そして、
1997年、癌で、81歳で死亡しました。

最後の言葉は、
「二度とあのバカな戦争を、
繰り返してはいけない。」だそうです。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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