日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(2)
- 2018/12/05
- 05:05
第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』に、
『美濃部正』の夜襲隊を、手伝うように言われたので、
人員や機材などに関して、便宜を図りました。
『美濃部正』は、使い慣れた「月光」を希望しましたが、
すでに生産が中止されて、
十分な数が揃わないことが判明しました。
次に、新鋭陸上攻撃機「銀河」を希望しましたが、
20機ぐらいしかありませんでした。
その後、『美濃部正』は、
「彗星」が、大量に倉庫にあり、
誰も使わないという事を聞きました。
倉庫で眠っていた急降下爆撃機「彗星一二型」ですが、
ダイムラー・ベンツ社製の水冷エンジを、ライセンス生産した、
当時、最新鋭のエンジン「アツタ32型」を採用し、
高速での夜間飛行も難なくこなす事が可能な
高性能の飛行機でした。
しかし、
人材不足による不慣れな整備員と経験不足とが重なって、
続出するエンジントラブルを解消できなかったので、
誰も使いたがらなくなり、
最終的には、倉庫に放置されていました。
『美濃部正』は、
機体トラブルの解消を図るために、
「彗星一二型」を製造した愛知航空機へ、
整備員を派遣し、技術向上に努めました。
そして、
当時は最新鋭の兵器の
対地、対空用の3式1番28号爆弾や3式25番8号爆弾、
爆弾の頭から電光を発して地表近くでその反射光に反応して、
爆発して爆風や破片で、周囲に被害を与える31号光電管爆弾など、
特殊爆弾を積極的に採用しました。
そして、
人事局からも厚遇され、
『美濃部正』は、人事局のリストから、
水上機搭乗員、その他の地上人員も、
優秀な人材を指名する事が出来ました。
『美濃部正』は、期待に応えるため、
厳しい訓練を行いました。
夜間攻撃のため、
「猫日課」と称して、
昼夜を逆転させる生活を行い、
午前0時に起床し、1時に朝食、6時に昼食、
11時に夕食、午後4時に夜食として、
電灯使用を制限して、
夜目の強化を促したそうです。
時間的ゆとりと燃料の割当が少ないので、
座学の重視し、
図上での演習をくり返し実施し、
目標とする場所の立体模型を作って、
進入経路を覚え、
航法、通信、夜間の艦艇の見え方、
攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、
機材等についての講義が頻繁に行われ、
技術向上に努めたそうです。
ちなみに、
1904年、
日本で初めての立体模型を作製し、
アメリカのセントルイス万国博覧会に、
出品した「大日本帝國交通地理模型」は、
『釜瀬新平』です。
詳しい話は、動物病院HPの歴史の話にあります。
ちなみに、
自分は、歴史と生物は、得意科目でしたが、
地理と技術・家庭の模型作製、
図画工作の工作は苦手科目です。
『美濃部正』は、
効率を第一にして実用的なことのみ、徹底して教えたので、
訓練時間を約1/3にまで短縮することが出来るようになり、
やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、
短期間で、往復約1700km、約5時間にも及ぶ
夜間飛行が可能となるまで鍛え上げました。
『美濃部正』は、
「敵機がいたらケツに付け。
あいつらが着陸する前には、滑走路に照明がつく。
そこを狙う。下からは絶対に撃たれん。
爆弾は、とにかく、当てさえすれば、燃える。」と指導しました。
部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から、
富士山がよく見えたので、
富士山の別名「芙蓉峰」に因んで、
『美濃部正』が、夜襲隊を、
「芙蓉隊(芙蓉部隊)」と命名しました。
芙蓉部隊所属の搭乗員は、

芙蓉(フヨウ)の花の薄紅色の

古い写真で、分かりにくいのですが、マフラーの色は、薄紅色です。
マフラーを着用していたそうです。
そして、
芙蓉部隊の猛訓練の成果は顕著に表れ、
確実に戦果を出したそうです。(続く)
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