日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(7)靖国神社
- 2018/12/01
- 05:05

1945年5月11日、
南西諸島沖で、「ワレ突入ス」との無線の後、
アメリカ空母「バンカー・ヒル」に突入し、
大破、炎上し、死者396人、負傷者264人を出しました。

特攻により炎上するアメリカ空母「バンカー・ヒル」
バンカー・ヒルの乗組員だった『ロバート・ショック』が、
「バンカー・ヒル」の処理を行なっている時、
炎上せずに残っていた『小川清』の遺品を見つけ、
持ち帰って大切に保管していたそうです。
これを形見として受け取った『ロバート・ショック』の孫が、
『小川清』の遺族に返還したそうです。
神風特別攻撃隊『小川清』海軍中尉(22歳)の遺書
【お父さんお母さん。
清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。
思えば二十有余年の間、
父母のお手の中に育った事を考えると、
感謝の念で一杯です。
全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、
この御恩を君と父に返す覚悟です。
あの悠々たる白雲の間を超えて、
坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。
生と死と何れの考えも浮かびません。
人は一度は死するもの、
悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。
父母様もこの私の為に喜んで下さい。
殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、
なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。
清は靖国神社に居ると共に、
何時も何時も父母上様の周囲で
幸福を祈りつつ暮らしております。
清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。】
神風特別攻撃隊第十九金剛隊『富澤幸光』中尉(23歳)の遺書
1945年、1月6日、フィリピンで特攻戦死
【お父上様 お母上様
ますます御達者でお暮らしのことと存じます。
幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。
お正月もきました。
幸光は靖國で24歳を迎へることにしました。
靖國神社の餅は大きいですからね。
父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。
お正月になつたら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。
雑煮餅が一番好きです。
ストーブを囲んで幸光の思ひ出話をするのも間近かでせう。
靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。
母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。
靖國で待つてゐます。 きっと来て下さるでせうね。
本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。
敵がすぐ前に来ました。
私がやらねば、父様、母様が死んでしまう。
否、日本国が大変なことになる。
幸光は誰にも負けずきつとやります。
母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。
母上様も幸光と共に御奉公だよ、
いつでも側にいるよ、と言って下さつてゐます。
心強いかぎりです。】
作家『三島由紀夫』が、
特攻隊の遺書を読んだ時、
「すごい名文だ。
命がかかっているのだからかなわない。
俺は命をかけて書いていない。」と言って、
号泣したそうですが、
特攻隊の遺書は、心に響く物があります。
作家『三島由紀夫』と
不死身の日本兵の話がありますが、後日…。
「靖国神社で会おう。」という言葉は、
戦死者の合い言葉で、
靖国神社は、日本兵士たちの心のよりどころでした。
靖国神社は、祖国を大切に思い、
後世に生きる私たち日本人のために、
戦った方々や散って行かれた方々を、
祭神「英霊」として祀っています。
今の日本は昔の人たちが、
頑張って、築き上げてきた物があるから、
他のアジア諸国みたいに、
欧米の植民地にならずに済んだので、
感謝するべきだと思います。
だから、
「靖国神社」は、
日本人にとっては、大切だと思います。
ちなみに、「靖国神社」は、
当初、祭神は「忠霊」、「忠魂」だったのが、
日露戦争を機に、「英霊」と称されるようになったそうです。
「英霊」と称されるようになったのは、
『藤田東湖』の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の
「英霊いまだかつて、ほろびず、
とこしえに天地の間にあり」の句が、
愛唱されていたことに由来するそうです。
「靖国神社」に関して、
戦争を始めた人も祀られているのは、
問題かもしれませんが、
諸外国が言う問題ではないと思います。
外交が、ものすごく下手な日本は、
外交のうまい政治家や優秀な外交官が、
もっと必要だと思います。
特に、近隣の怪しい諸外国に好き勝手にさせるのではなく、
毅然とした態度で外交をして欲しいです。(続く)
- 関連記事