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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(5)婚約者へ

陸軍第20振武隊『穴沢(穴澤)利夫』少尉(23歳)

1945年、4月12日、沖縄海上で特攻戦死



『穴沢利夫』少尉は、
故郷の福島県那麻郡に児童図書館をつくるために、

中央大学に進学し、

東京医科歯科大学の図書館で、
司書としてバイトしていた所に、

後輩たちが実習に来ていたのですが、

そのうちの1人『孫田智恵子』さんと、
付き合うようになったそうです。

そして、付き合いが順調に進み、

東京の『孫田智恵子』さんの実家を訪ねたそうです。

そして、両親から結婚の了解をもらったそうです。

そして、
『穴沢利夫』少尉が去った後、
『孫田智恵子』さんが、部屋を片づけていると、
火鉢の中に、『穴沢利夫』少尉が吸っていたタバコの吸殻を、
見つけました。

「孫田智恵子』さんは、

『穴沢利夫』少尉が、人差し指と中指をまっすぐ伸ばして、
タバコを挟み、口元に持ってきた手を、
腕を伸ばしたまま火鉢に戻して灰を落とす動作に、

ぎこちなさを感じ、
最近、軍隊でタバコを覚えたんだと思ったそうです。

そして、何気なく、結婚決定の記念にという事で、
タバコの吸殻を保管しました。

その夜、『穴沢利夫』少尉は、
目黒にある親戚の家に泊まりました。

その翌日、1945年3月10日、
アメリカ軍による東京大空襲が起きました。

アメリカ軍は、
日本家屋を再現した実験場を作り、
大規模な延焼実験を行分析し、
日本家屋に対する効果的な爆撃法を研究し、

爆撃地域が徹底的に検討されました。

東京大空襲は、無差別絨毯爆撃だったので、
国際法違反ですが、

当然、戦争は、勝者が正義なので、

そんなのは、関係ないという事で、

工場とか軍の施設とかを狙うのではなく、

人口密度が高い地域を狙い、

罹災者100万人以上、
死者10万人以上となる被害が出ました。

『穴沢利夫』少尉は、『孫田智恵子』さんを心配し、
夜が明ける前に、
『孫田智恵子』さんの実家へと、徒歩で向かいました。

ちょうど同じ頃、『孫田智恵子』さんも、
『穴沢利夫』少尉の身を案じ、
目黒に向かっていました。

すると、運命のめぐりあわせか、
偶然にも、2人は、出会ったそうです。

そして、
互いに生き残ったことを、喜び合ったそうです。

『穴沢利夫』少尉は、
勤務地の大宮の飛行場に戻るため、
国鉄に乗る事になりました。

『孫田智恵子』さんは、
親から結婚の許しも得ているし、

少しでも長く一緒に居たいという事で、

大宮の飛行場まで行くという事になり、
一緒に国電に乗ることにしました。

しかし、空襲の直後で、
駅も電車も、ものすごく混雑していたので、
『孫田智恵子』さんは、息苦しくなったそうです。

そのため、
また後日、会う約束をして、

『孫田智恵子』さんは、

池袋駅で電車を降りました。

『孫田智恵子』さんは、別れ際に、

「まだ寒い日が続くし、
マフラーを私と思って…。
いつも一緒にいたい。」と言って、

自分の首に巻いていたマフラーを、
『穴沢利夫』少尉の首に、巻きました。

しかし、これが、二人の永遠の別れとなりました。

『穴沢利夫』少尉は、特攻に選ばれてから、
『孫田智恵子』さんへ送った手紙で、

【 万葉集の
「ますらをと思へる吾や水茎の水城の上に涕拭はむ

(意訳:自分は、男の中の男だと思っていたが、
そうではない

水城の上に立って、
別れを惜しんで涙を拭っているのだから) 」という歌がありますが、

自分も、同じ気持を味わっています。

でも、僕は安心して ゆくのです。

僕がこの世で唯一、最愛の女性として選んだ人が、

あなたでなかったなら、

こんなにも安らかな気持ちで、

ゆくことは出来ないでしょう。

僕は今、あなたとの交わりを、
ひとつひとつの思い出でもって、
生き生きと甦らせようとしています。

あなたが、初めて、園芸植物の「グラジオラス」を持って来て、
図書室の花瓶に生けてくれた日の事など…。】と書きました。

その後、
『穴沢利夫』少尉は、特攻の日が決まったので、
婚約者『孫田智恵子』さんへの遺書を書きました。

【二人で力を合わせてつとめてきたが
ついに実を結ばずに終わった。

希望を持ちながらも

心の一隅であんなにも恐れていた

時期を失する といふ事が

実現してしまったのである。

去年の十日、
楽しみの日を胸に描きながら、

池袋の駅で別れたが、

帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。

発信は当分禁止された。
転々と所を変えつつ多忙の毎日を送った。

そして今、晴の出撃の日を迎えた。

書く事はうんとある。

然し、そのどれもが今迄のあなたの厚情に
御礼を言う言葉以外の何物でもない。

あなたのご両親、兄様、姉様、妹様、弟様、
みんないい人でした。

至らぬ自分にかけて下さったご親切、
全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、

ありがとうございました。と
最後の純一なる心底から言っておきます。

今は過去に於ける
長い交際の跡を、たどりたくない。

問題は今後にあるのだから。

今後正しい道に進む事を信じています。

しかし、
それとは別個に婚約をしてあった男性として、
散ってゆく男子として、
女性であるあなたに少し言って征きたい。

あなたの幸せを望ふ以外に何物もない。

従らに過去の少義に拘るなかれ。
あなたは過去に生きるのではない。

勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出す事。

あなたは、今後、現実の中に生きている。

穴沢は、現実の世界にはもう存在しない。

極めて抽象的にながれたかも知れぬが、
将来に生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様、
自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。

純客観的な立場に立って言うのである。

今更何を言うかと自分でも考えるが、

やりたいことを書いてみる。

1、もう一度読みたいもの:
「万葉集」、「芭蕉句集」、『大木実』の詩集「故郷」、
『高村光太郎』の詩集「道程」、『三好達治』の詩集「一点鐘」

2、もう一度観たい画:
『ラファエロ・サンティ』の「聖母子像」、
『狩野芳崖』の「非母観音」

3、智恵子。  会いたい。

  話したい。    無性に…。】

そして、
『穴沢利夫』少尉が特攻する日、
以前、婚約者『孫田智恵子』さんから、もらったマフラーを、
飛行服のスカーフの内側に巻いて、出撃したそうです。


最前列の『穴沢利夫』少尉の首元は、
他の隊員よりもマフラーが膨らんでいます。


知覧高女の女生徒達に見送られ、
一式戦闘機「隼」に乗り、特攻に出撃する『穴沢利夫』少尉

婚約者『孫田智恵子』さんのマフラーを、
飛行服のスカーフの内側に巻いて特攻に行く

『穴沢利夫』少尉の辞世の句は、

「一人飛ぶも 一人にあらず 

ふところに 君を抱きて 空ゆく我は」です。

そして、

2006年、
『伊達(旧姓:孫田)智恵子』さんの元を訪ねた
『水口文乃』さんの著書「知覧からの手紙」を読むと、

『伊達(旧姓:孫田)智恵子』さんは、

「大切なものが入っているの。
彼の唇に触れた唯一のものだから。」と言って、

『穴沢利夫』少尉の遺品のタバコの吸殻を、
寄木細工の小箱に入れて、
60年以上大切に保管していたそうです。



『伊達(旧姓:孫田)智恵子』さんは、

「利夫さんは生きたくても生きられなかったけど、
残された私や彼の家族、
それに未来に続くあなたたちのために
特攻隊として身を投じたの。

私はその遺志を受け継いで、
できることなら利夫さんの思いを果たしていきたい。

現在のあなたたちは、
命は尊いものだと教えられているでしょうけれど、

あの時代は、
命は国のために捨てるべきものだったの。

今とは、あまりに価値観が違うから、
わからないと思うことも当たり前かもしれないわね。

最近は、戦争が美談とされることもあるし、
特攻隊を勇ましいと憧れを持つ人もいる。

でも、私たちは戦争がいかに悲惨なものかを知っています。

間違った事実が伝わらないように、
話しておかないと、と思ったのです。」と言われたそうです。


TV番組で、『穴沢利夫』少尉の遺品の軍服を渡されて…

ちなみに、
『伊達(旧姓:孫田)智恵子』さんは、
友人の紹介で知り合った『伊達亟夫』さんと、
1954年に、結婚しましたが、『伊達亟夫』さんは、
1973年に、お亡くなりになったそうです。

そして、『伊達(旧姓:孫田)智恵子』さんは、
2013年、お亡くなりになられたそうです。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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