陸軍特攻第七十七振武隊『相花信夫』少尉(18歳)の遺書
1945年、5月4日、沖縄海上で特攻戦死
【母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました
我6歳の時より育て下されし母
継母とは言え
世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄
「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが、
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい、
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと・・・】
神風特別攻撃隊第5神剣隊『茂木三郎』少尉(19歳)の遺書
1945年5月4日、沖縄海上で特攻戦死
【僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。
お母さん、良く顔を見せて下さい。
しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから、
「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、
自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。】
回天轟隊特攻隊員(18歳)の遺書
【お母さん、
私は、
あと、3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。
本当ですよ、お母さん、少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、
少し寂しくなってきました。
後日、私が戦死した通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思いますが、お母さん。
お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。
やはり寂しい。
しかしお母さん。考えて見てください。
今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、
この世の中で一番好だった母さんが、
死なれるから私が行くのですよ。
母さん。今日私が特攻隊で行かなければ、
年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。
だからね。お母さん。
今日私が戦死したからといって、
どうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。
お母さんは優しい人だから。
お母さん、
私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、
母さんの涙です。】 (続く)
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