日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(3)
- 2018/10/30
- 05:05
炭酸ガス、水、シロップを加えれば、
簡単に製造出来るラムネを製造する機械が導入されました。
そして、次に、饅頭などを作る機械一式が導入され、
羊羹など餡子を使った和菓子が製造可能となり、
1931年より、パンなどの一般的な食料だけではなく、
ラムネ、饅頭、モナカ、ようかん、アイスクリーム、
ケーキ、タピオカプリンなどが生産されるようになったそうです。
そして、「間宮」が停泊中には、
海軍兵学校同窓会などの会場として、
すき焼きパーティなどが開催されたそうです。
そして、「間宮」は、海軍の誰もが知る夢のような、
本格的な洋上のお菓子工場となりました。
1941年より基地化したトラック諸島は、
第二次世界大戦当時、
日本海軍の一大拠点で、連合艦隊の艦艇が集結し、
約2万の将兵が暮らしていました。
「間宮」は、製造時には最新型でしたが、
第二次世界大戦当時、製造から10年以上経過して、
すでに海軍の中では旧式艦ともいえる存在となっていました。
当時、
石油でエンジンを動かす船が主流だった中、
「間宮」は石炭を使っていたので、14ノット(時速約25km)でゆっくりと、
10日ほどかけてトラック諸島へ、補給のために向かいました。
海軍では、「間宮」以外の給糧艦を要望し、
1941年、「伊良湖」が完成し、「間宮」と共に、
活躍したそうです。
「伊良湖」は、当初、速力20ノット、
2万5千人の20日分の給糧艦が目標でしたが、
予算、日程等の関係で、
速力17ノット(時速約33km)、
2万5千人の約2週間分の給糧艦になったそうです。
ちなみに、戦艦「大和」は、27ノット(時速約50km)でした。
そして、「間宮」、「伊良湖」が来ると聞くと、
多くの兵たちが、歓喜に沸いたそうです。
そして、
「間宮」、「伊良湖」がトラック諸島に来たと分かると、
停泊している船の食糧調達係が、
われ先にと小船で押し寄せました。
特に、甘くておいしい「間宮」の羊羹は大人気で、
数に限りがあるため、争奪戦となったそうです。
ちなみに、
「間宮」の羊羹は、
羊羹の有名老舗「とらや」をライバル視し、
「とらやの羊羹より、
美味しくて、大きく作る事!」を目標にしていたので、
当時の「間宮羊羹」は、
なんと、2kg以上の物もあったそうです。

そのサイズの羊羹を、
1日に2千本以上製造できたそうです。
当時の「海軍主計兵調理術教科書」に、
レシピが載っていて、
現在、「間宮羊羹」を再現して、
2kgは販売されていませんが、

1kg以下の物が販売されています。(続く)
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