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日本を守るために命をかけて戦った人々(5)-最後の特攻『宇垣纏』海軍中将

最後の特攻を行ったのは、
プライドが高いと言われている
第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将です。

以前、
第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将が、
特攻隊を見送っていた時、

特攻隊員から、
「本日の攻撃において、
爆弾を百%命中させる自信があります。

命中させた場合、
生還しても、よろしいですか?」と聞かれた時、

第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将は、
「まかりならぬ。」と即座に大声で答えたそうです。

そして、
敗戦が明らかになった1945年8月15日、

『宇垣纏』海軍中将は、
沢山の特攻を出した責任者だから、
生きて戦後は迎える事は出来ないと考え、

「まだ停戦命令を受けていない。
多数殉忠の将士の跡を追い、
特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし。」
と言って、特攻に出ようとした時、

参謀長『横井俊之』から、
「死ににいく気持ちは理解できるが、
戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、
特攻を止める事は、出来ないか?」と注意を受けましたが、

『宇垣纏』海軍中将は、
「武人としての死に場所を。」と言ったそうです。


特攻機「彗星43型」で特攻に出る直前の
満足した笑みの『宇垣纏』海軍中将

そして、
有志の部下たちと11機(23人)で、
特攻に出たそうです。

そのうち、3機は故障のため途中不時着しましたが、

残る8機が、沖縄に進攻した敵機動艦隊に向かって、
「敵空母見ユ」、「ワレ必中突入ス」を最後に、
連絡は途絶えたそうです。

この時の特攻による死者は、
『宇垣纏』海軍中将を含め18人だそうです。

ちなみに、敵艦隊には、被害は無かったそうです。

これを知った『小沢治三郎』連合艦隊司令長官は、

「陛下の終戦の大命をなんと心得るか!

私情で部下を道連れにするなどは、
もってのほか。

死ぬのなら一人で死ね!」と激怒したそうです。(続く)
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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、旅をしていました。

そして、
海外14カ国を、旅をして、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

だから、
高校の時、歴史の先生から、
歴史関係の進路を、
ものすごく強く勧められました。

でも、
生物の方が好きだったので、
獣医になりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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