日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(4)
- 2018/10/10
- 05:05
『佐々木友次』伍長は、
フィリピンのカンルーバン捕虜収容所で、
知り合いの読売新聞の『鈴木英次』記者から、
「お前、殺されることになっていたのを知っているか?
第四航空軍は、
大本営発表で、死んで者が生きていては困るから、
第4航空軍司令官『冨永恭次』が銃殺命令を出し、
第四飛行団の『猿渡篤孝』大佐が、
お前を、秘密裏に殺すために、
狙撃隊を準備していたんだぞ。
でも、地上勤務の兵隊が怒って、
特攻隊の狙撃命令を出すとは何事か!
『佐々木友次』伍長を守れ!と騒いでいるうちに、
日本が降伏したので、狙撃隊が解散したので、
命が助かったようなものだ。
おそらく、日本が敗戦しなければ、
秘かに、殺されていたと思う。」と聞いたそうです。
それを聞いて、『佐々木友次』伍長は、
ビックリしたそうです。
そして、
1946年1月15日に日本に帰国しました。
そして、
復員兵の帰国手続きをする「第一復員省」に行きました。
すると、そこの担当者が、
「よう、今帰って来たか。」と、
なれなれしく声をかけて来ました。
見ると、見た目が違っていたので、
すぐには分かりませんでしたが、
何度も自分に死ねと言ったり、
最後には狙撃隊で、自分を殺そうと計画していた
あの第四飛行師団参謀長『猿渡篤孝』大佐でした。
『佐々木友次』さんは、腹が立ち
殴ろうかと思い、『猿渡篤孝』大佐の顔を、
にらみつけました。
すると、『猿渡篤孝』大佐は、
反射的に、両手で頭をかばうような仕草をし、
落ち着きなくなり、震え始めました。
収容所では、『猿渡篤孝』大佐のように、
横暴で偉そうにしていた上官を、
兵隊たちが、追い回して、
袋叩きにしていました。
『佐々木友次』伍長は、それを思い出し、
あらためて『猿渡篤孝』大佐の顔を見ると、
眼帯をかけ、やせ細り、体中傷ついていて、
昔の威厳は無く、みすぼらしくなり、
オドオドして哀れに思えたので、
腹の虫がおさまりました。
そして、「はい、今、東京に着きました。
参謀長殿は、いつ帰られましたか?」と聞くと、
『猿渡篤孝』大佐は、落ち着きを取り戻し、
「だいぶ前に戻った。」と答えたそうです。
そして、
『佐々木友次』伍長が、「第一復員省」を出た所、
石が飛んできたそうです。
石が飛んできた方を見ると、
「戦争に負けたのは、貴様らのせいだ!」、
「戦に負けて、よくも帰って、これたな!
恥知らず!」
「戦犯!」と叫びながら、
戦争に行かなかった多くの日本人たちが、
復員軍人たちに、石を投げてきたそうです。
何故なら、マスコミが、
戦争の前は、
政府の外交政策を、弱腰、軟弱外交という形で糾弾し、
対外強硬論を煽り、開戦を主張し、
国民を開戦支持に導き、
戦争中は、戦功があった軍人を、
軍神と言ったりして、戦争をあおっていたのが、
戦後は、軍人を戦犯と決めつけ、
戦争の責任を、軍人になすりつけたからでした。
『佐々木友次』伍長は、日本の事を思い、
大変な思いをして、戦ってきたのに、
戻ってきたら、この仕打ちか、…とショックを受けたそうです。
そして、
アメリカ兵と片言の英語をしゃべり、
アメリカ兵とふざけあっている若い女性を見て、
『佐々木友次』さんは、さらにショックを受けたそうです。
何故なら、
捕虜収容所で、「アメリカ兵が上陸したら、
日本女性は貞操を守り自決するだろう。」と
仲間で話していたので、
「何のための特攻だったのか?
何を守ろうとしていたのか?」と思い、
特攻で死んで行った仲間たちを、
思い出したそうです。
その後、『佐々木友次』伍長は、
北海道で、農業を営み暮らしましたが、
やはり戦後、戦犯として、周囲の心無い仕打ちに、
苦労されたそうです。
ある時、
9回の特攻を生還した理由について聞かれた時、
「寿命があったから。」とだけ答えたそうです。
そして、
2016年、呼吸不全のため、92歳で亡くなったそうです。(続く)
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