日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(1)
- 2018/10/01
- 05:05
「そのようにまで、せねばならなかったか。
まことに遺憾である。
しかし、よくやった。
哀悼の情にたえぬ。」と言われたそうです。
日本陸軍第1回の特攻隊「万朶隊」に選ばれ、
9回特攻出撃して、
9回生きて帰ってきた特攻隊員がいました。
その、特攻隊員の名前は、当時21歳の『佐々木友次』伍長。
陸軍航空隊で最初に結成された特攻隊の「万朶隊」は、
敵艦船攻撃のための爆撃訓練を行う
優秀なベテランパイロット達の集団でした。
陸軍上層部は、
第1回目の特攻なので、
何が何でも必ず成功させる必要があったので、
優秀なベテランパイロット達の集団「万朶隊」を選びました。
しかし、
陸軍上層部から、機体で「敵に体当たりしろ」という
新たな命令と共に、
「万朶隊」に送られてきた「九九式双発軽爆撃機」は、
機体に付いてある機関銃は全て取り外され、
機体の先端がぶつかると爆発するように、
弾薬を作動させるための装置の長い信管が3個取り付けられ、
この信管により、速度は10km/時遅くなった上、
機体の安定性が悪くなり、
左右の首振り運動を安定させるための方向舵が上手く動かず、
800kg爆弾は、搭乗員の手では、落とせないように改造され、
敵を攻撃するのは、体当たりのみという状態でした。

改造された「九九式双発軽爆撃機」
先端の3本の棒が信管 銃器は全て外されている

通常の「九九式双発軽爆撃機」
先端に銃器、操縦席の後方にも銃器がある
操縦と爆撃の第一人者でもあった『岩本益臣』大尉(28歳)は、
訓練していた爆撃方法に自信を持っていたので、
「鍛え上げた技術を駆使して爆弾を投下し、
敵艦を沈めることが出来るのに、
「敵に体当たりしろ」という命令は、侮辱だ!」と言って、
特攻には大反対でした。
そのため、
『岩本益臣』大尉は、
明らかな命令違反でしたが、
特攻が実行される前に、独断で整備兵に頼んで、
爆弾を投下出来るように、機体を改造しました。
ちなみに、
特攻に行っても、
エンジントラブル、敵を発見できなかったり等、
色々な理由で、引き返さざるを得ない場合がありますが、
爆弾を落下できないように改造されると、
使わなかった爆弾は、
爆弾が着地時の衝撃により爆発し、
無駄死にするという危険性があるので、
通常は、爆破する危険性がある時は、
爆弾を全部海上等に捨ててから、着陸していました。
だいたい、
敵艦隊に体当たりするには、
猛烈な攻撃を避け、超低空飛行で近づき、
船の軸線に入り、蛇行して逃げていく進路の先を予想し、
風向き、風速、突入角度も考慮する必要があり、
成功させるには、熟練の高度な技術が必要でした。
ちなみに、初期の頃、
特攻に選ばれたのは、ベテランでしたが、
ベテランが、特攻して死亡していくので、
途中からパイロット不足となり、
未熟なパイロットが、
特攻に選ばれるようになったそうです。
また、飛行機不足で、
ボロボロ状態の飛行機で行ったので、
特攻自体、かなり困難でした。
また、特攻を行うと、補充出来ないので、
飛行機も十分量つくる資源が少なくなってきているのに、
人も、飛行機の原材料も火薬など色々な物を、
無駄にする事になります。
これらの事を予想した『岩本益臣』大尉ら現場職員が、
航空に関する研究していた
「第3陸軍航空技術研究所」に抗議すると、
「崇高な精神力は、
科学を超越して軌跡をあらわす。」と
案の定、怪しいアホな回答をしてきました。
1944年5月、『東條英機』は、
陸軍航空士官学校を視察したそうです。
その時、
生徒に、「敵機は、どうやって落とすか?」と聞いたそうです。
生徒が、しばらく考えてから、
「訓練どおり、
対空砲の高角砲(高射砲)に弾丸を込め、
よく狙いを定めて撃ちます。」と答えると、
『東條英機』は、
「違う!
しっかり精神力を込めて撃てば、
敵機はいくらでも落ちてくる!
精神力が大切だ!
精神力で撃ち落とすのだ!」と
興奮気味に口から泡を飛ばし、
言ったそうです。
日本のトップが、精神力と言うのだから、
周囲もそう考えていたと思います。
しかし、学校長は、『東條英機』の言葉を無視して、
生徒たちに、科学的精神を持つように
訓示したそうです。
『岩本益臣』大尉は、隊員を集め、
軍上層部に対する反対意見を言うという事は、
あきらかな軍規違反、軍法会議レベルの重罪ですが、
「体当たりは、操縦者を無駄に殺すだけ。
体当たりで撃沈できる公算は少ない。
こんな作戦を考えたのは、現場を知らないか、
思慮が足らないやつだ。
出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい。
無駄死するな!」と命じました。
『岩本益臣』大尉の考え方は、ものすごく共感を持てます。
何故なら、
自分も国の馬鹿エリートが考えたバカすぎる卓上論に、
同じ様に、ものすごく振り回されたことがあるので、
よく分かります。
詳しくは、あっちこっち雑記に書いてあります。
時代が変わっても、
現場の事を知らない試験の成績だけが良いエリートが、
卓上で考えると、
必ずと言っていいほど、超アホすぎる問題が生じます。
国のエリートたちは、現場を知らない上、
色々な事を複合して考える事が、全く出来ません。
特攻隊の「万朶隊」の最初の出撃前に、
陸軍最低との評価の高い第4航空軍司令官『冨永恭次』が、
宴会を芸者のいるマニラの料亭「広松」に呼んで、
景気づけたいと言いました。
ついでに、
『岩本益臣』大尉が特攻機を改装した事に関して、
事情を聴きたいという事で、
『岩本益臣』大尉ら少尉以上の士官5人が呼ばれ、
マニラに向かいました。
ただ、そのためには、
敵が制空権を持っている空域を、長距離飛ぶ必要性があり、
「万朶隊」には、特攻用の銃器を外した飛行機しかなかったので、
第4航空軍司令官『冨永恭次』の周囲にいた参謀たちは、
『岩本益臣』大尉らが来るのは危険なので、
中止した方が良いと言いましたが、
第4航空軍司令官『冨永恭次』は、
聞く耳を持っていませんでした。
そして、
予想通り『岩本益臣』大尉らの搭乗した機体が、
アメリカ軍グラマン戦闘機にマニラ上空で撃墜され、
全員殉職しました。
そのため、『佐々木友次』伍長ら、
伍長から曹長の下士官だけが残されました。
『佐々木友次』伍長は、北海道出身で、
幼い頃から飛行機が大好きで、
飛行機乗りに憧れていました。
そして、17歳の時に、
難関の陸軍の下士官操縦士養成所の試験に。
合格しました。
ちなみに、
当時の操縦士募集のポスターには、

「空だ 男のゆくところ」と書いてあります。
ちなみに、
同期には、共産主義者同盟赤軍派が起こした
「よど号ハイジャック事件」に遭遇した
『石田真二』機長がいたそうです。
そして、
日本陸軍第1回の特攻隊『万朶隊』に選ばれました。

出陣前の乾杯。左端が『佐々木友次』伍長
その時、『佐々木友次』伍長は、
日露戦争を生きのびた父の
「人間は容易なことで死ぬもんじゃないぞ。」との教えを、
思い浮かべたそうです。
そして、マニラ上空で撃墜され、
殉職した『岩本益臣』大尉ら少尉以上の士官の5人の遺骨を持ち、
『岩本益臣』大尉の
「爆弾を命中させて帰ってこい。」との命を胸に秘めて、
無念にも作戦前に戦死した士官の分まで、
戦果を挙げるまでは死なないと考え、
士官の数だけ敵艦を沈没することを目指したそうです。
そして、
1944年、11月12日、
そして、『佐々木友次』伍長(21歳)は、
4人乗りの九九双軽に1人で乗り込み、
最初の特攻に出撃しました。(続く)
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