日本を守るために命をかけて戦った人々(3)-陸軍史上最悪の軍人『冨永恭次』中将
- 2018/09/25
- 05:05
航空特別攻撃隊の出撃命令と敵前逃亡疑惑など、
陸軍史上最悪の軍人だと批判のある
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を出し、
その後、計62回、約400機の特攻を命令しました。
ちなみに、
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
中央勤務が長かったので、
実戦経験が乏しく、
航空戦の知識は皆無だったのですが、
空軍司令官になったそうです。
そのため、
航空機の知識も皆無だったので、
出撃を見送る際も、
軍刀を掲げて、滑走路で出撃命令を出すなど、
航空機の離陸の邪魔になるような行動も多かったそうです。
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れて、
「諸君はすでに神である。
君らだけを行かせはしない。
この後、
第4航空軍全員が続いて行く。
そして、
最後の一機で、本官も特攻する。
安心して大任を果たして欲しい。」と
何度も同じ訓示を垂れたそうです。
ただし、
機体の故障等で帰還した特攻隊員は、
許せなかったらしく、
「意気地なし!死ぬのが怖いのか!」と
怒鳴りつけ殴り倒したそうです。
アメリカ軍を中心とした連合軍は、
日本が死守しているマニラを、
港の補給拠点としての利用と
捕虜収容所の解放という目的から、
マニラ奪還を重視していたそうです。
そして、
司令官『山下奉文』大将は、
日本軍が劣勢にになったので、
艦砲射撃を多用する米軍相手に、
水際での戦闘を挑むよりは、
司令部を、
マニラからルソン島北部のバギオに移動して、
艦砲の砲弾が届かない山岳に誘い出して、
持久戦を行うほうが望ましいという方針を立て、
また、マニラから、
短期間に全市民を避難させることは不可能と判断し、
市民の被害を避ける目的のため、
無防備都市宣言することを検討しました。
しかし、
軍上層部はマニラの放棄には、
同意しなかったそうです。
特に、第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
強硬にマニラ死守を主張し、
最後は竹槍で突撃すればいいと言って、
マニラ放棄を、断固拒否しました。
そして、司令官『山下奉文』大将は、
マニラ防衛隊を3個大隊だけを除いて、
マニラ市街から退去させたそうです。
徐々に戦況の悪化を見た
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
精神的に不安定になり、
宿舎の前の通る車がうるさいと言って、
重要な道路を封鎖したり、
鳥がうるさいと言って、
兵士たちに鳥を捕獲させたりしました。
日本に戻ろうと考え、
心身の消耗を理由に、
司令官の辞任を2度も申請しましたが、
決戦の最中に司令官を交代することは、
出来ないとして拒否されました。
そして、自分の世話をさせるため、
3人の若い看護婦と専門のマッサージ師を呼んで、
戦時中とは思えないような贅沢な食事を続けたそうです。
そして、
1945年1月6日に、
指揮下の部隊に連絡をせず、機密書類を放置したまま、
台湾への視察が命じられたとウソを言って、
残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、
「胃潰瘍」の診断書とお気に入りの数人の参謀と
お気に入りのウイスキー瓶を持って、
軍上層部に無断で、台湾に逃げたそうです。
日頃から、
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
燃料不足なので、訓練飛行も含めて全ての飛行を、
厳しく制限すると言っていたのに、
無駄に燃料を使ったので、
残った兵士たちの怒りと嘲笑を買ったそうです。
それを知った『山下奉文』大将は、
「部下を置き去りにして逃げるような奴に、
何ができるか!」と怒ったそうです。
そして、当時はやっていた
作詞『西條八十』、作曲『古関裕而』の
「若鷲の歌(予科練の歌)」は、
1番から4番までありますが、
1番の
「若い血潮の予科練の 七つボタンは
桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く」の歌詞と、
4番の歌詞の出だしの
「命惜しまぬ予科練の」を掛け合わせ
「命惜しさに富永が 台湾に逃げた
その後にゃ 今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
でっかい爆弾に 身が縮む」と替えた替え歌が、
流行ったそうです。
そして、
置き去りにされた
約1万の第4航空軍の残存将兵は、
満足な小銃も与えられず、
バレテ峠で、ほぼ全滅したそうです。
その後、
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
台湾で胃潰瘍の治療に専念したそうです。
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将は、
逃亡先の台湾では、
逃亡した事が知れ渡った上、
昼間から軍の乗用車に、
芸者を乗せて走っていたので、
一兵卒でさえ、
第4航空軍司令官『冨永恭次』中将には、
敬礼しなかったそうです。
上級司令部は、
直前までマニラ死守を呼号していた『冨永恭次』中将が、
単独逃亡した事実に、憤激していたので、
本来であれば軍法会議で、糾弾されるのですが、
『東條英機』の腰巾着で、気に入られていたので、
暫く何の処分も下されなかったそうです。
しかし、
『冨永恭次』中将は、
陸軍中央でも問題になり、処分が検討された結果、
軍隊に在籍しながら、一時的に戦争から離れ、
一般社会で生活を送る予備役に編入されたそうです。
しかし、
「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を、
予備役にして戦争から解放するのは、
おかしいのではないか?」という事で、
『冨永恭次』中将を召集し、第139師団の師団長として、
満州に派遣したそうです。
その後、第139師団の師団長『冨永恭次』中将は、
シベリアのハバロフスク収容所に抑留されたそうです。
そして、
1955年、引揚船「興安丸」で、
舞鶴港に帰国したそうです。
そして、1960年、68歳で死亡したそうです。
ちなみに、
昭和天皇は、
『東條英機』の真面目さに好意的でしたが、
「『東條英機』の世間の評判が、悪化したのは、
『冨永恭次』中将のような
評判の良くない者を使ったからだ。」と同情したそうです。
ちなみに、
『冨永恭次』中将の息子『冨永靖』少尉(22歳)は、
特別操縦見習士官の試験に不合格の結果でしたが、
よく聞く事ですが、
当時、陸軍次官だった父『冨永恭次』中将の権力で、
合格となったそうです。
そして、
『冨永靖』少尉が、熊谷飛行学校に入校すると、
『冨永恭次』中将は、休日のたびに来校し
色々と息子の教育に注文をつけ、
学校関係者を困らせたそうです。
『冨永恭次』中将は、「後から私も続く」、
「息子も出撃させる」などと言い、
特攻隊を送り出していました。
そして、『冨永靖』少尉(22歳)は、
父親とは違い、肝がすわっていたそうで、
沖縄で特攻出撃の際、「これを家族に。」と言い、
遺品となる財布等を、係員に渡したそうです。
その時、
壮行督励にやってきた第100飛行団の参謀は、
そのあまりに堂々とした態度を見て、
下士官に「あれは誰か?」と尋ねたそうです。(続く)
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