日本を守るために命をかけて戦った人々(1)-最初の特攻隊隊長『関行男』大尉
- 2018/09/18
- 05:05
残念な事です。
今年の読書の夏は沢山の本を読みました。
自分の先祖が治めていた猫尾城のある黒木出身で、
応援している直木賞作家『安部龍太郎』の歴史の本は、
研究熱心で、資料を詳しく細かい所まで調べ上げているので、
話の題材や内容は、面白いのですが、
例えば、場面により『石田三成』は、『治部』、『佐吉』
そして、
『大谷吉嗣』は、『刑部』、『紀之介』と、
登場人物の名前が統一されず、変化し、
良い所で、章の変更なしに、急に場面が変わったりなど、
1度読んだだけでは、理解できないので、
2度以上読む必要があるので、
長編の時は、覚悟が要りますが、
今回時間があったので、短編から長編まで、
2度以上読み込み、面白かったです。
そして、
今年、最も読んでよかったのは、
『百田尚樹』の小説「永遠の0」です。
今はほとんど見ていませんが、
大阪にいた時は、『上岡龍太郎』が好きで、
『上岡龍太郎』の「探偵ナイトスクープ」の事が、
公開録画に行く位、好きだったので、
そのチーフライターの『百田尚樹』の
デビュー作「永遠の0」を購入していましたが、
分厚いので読んでいませんでした。
そして、今年、読書の夏という事で、
ようやく、読みました。
以前、
映画「永遠の0」を見た時は、
何も感動しませんでしたが、小説では違いました。
「永遠の0」は、0は零戦のゼロで、
第二次世界大戦時の零戦の
カミカゼ『神風特別攻撃隊』の話でした。
批判する人はいますが、
内容や題材の描き方や捕らえ方が、良く感動しました。
良かったのは、それだけではなく、
文字の選び方、文章や話の組み立て方などは、
批判する人は、それ以上の物を書けるのかもしれませんが、
自分には、到底真似が出来ない程、文章が素晴らしく、
感銘を味わせてくれて、圧倒的な筆力で描かれていて、
読んで良かったです。
それに付随して、
『鴻上尚史』の「不死身の特攻兵」も読みましたが、
これも面白かったです。
そこで、まずは、「永遠の0」にも書かれていた、
一番最初に特攻した日本海軍の『神風特別攻撃隊』の
「敷島隊」隊長『関行男』大尉の話をします。
日本海軍の航空機による体当たり戦術(特攻)は、
日本海軍航空隊の草分けである
『山本五十六』が言及していました。
そして、
1943年、
海軍航空本部総務部長だった『大西瀧治郎』は、
『城英一郎』大佐から、
敵艦船に対しての航空機による
体当たり戦術(特攻)を提案されましたが、
「意見は了解しましたが、
まだその時期ではない。」と答えたそうです。
しかし、
日本軍がマリアナ沖海戦に敗れると、
『大西瀧治郎』は、
『城英一郎』大佐、『岡村基春』大佐、
『舟木忠夫』司令など多数から、
再び、特攻について、ものすごく強く提案されました。
『大西瀧治郎』は、
「統帥の外道である特攻をしなければいけないのは、
日本の作戦が、いかにまずいかを表している。」と言っていましたが、
軍上層部より、特攻の基本的な準備は整えられ、
また、『大西瀧治郎』も、
「戦況の悪化を改善するために、
兵隊たちには、無駄な戦いではなく、
意義のある戦いをさせてやりたい。
それには体当たりしかない。」という考えに次第に傾きました。
そして、
1944年、マニラの海軍飛行隊基地に、
『大西瀧治郎』中将が、責任者として新しく着任しました。
当時の基地の司令は、『山本栄』司令でした。
たまたま、
他の基地に出張していた『山本栄』司令と副長『玉井浅一』中佐は、
『大西瀧治郎』中将を出迎える為、飛行機で帰還しました。
しかし、この時、飛行機が着陸に失敗し、
『山本栄』司令が、足を骨折して緊急入院してしまったので、
副長『玉井浅一』中佐が、
基地の一切を任せられることになりました。
そして、
1944年10月19日、
マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で、
新しく着任した『大西瀧治郎』中将が、
幹部の空司令代行『玉井浅一』中佐、一航艦首席参謀『猪口力平』、
航空戦隊参謀兼一航艦参謀『吉岡忠一』中佐らの幹部を集め、
日本海軍の特攻隊編成に関する会議を開きました。
そして、『大西瀧治郎』中将は、
「戦況悪化を打開するためには、
栗田艦隊のレイテ突入を成功させねばならない。
そのためには、空母を一週間くらい使用不能にし、
零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやる他に、
確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう?」と
航空機による体当たり戦術を提案しました。
これに対して副官『玉井浅一』中佐は、
「『山本栄』司令が、不在なので、
自分だけでは決められない」と返答しました。
すると、『大西瀧治郎』中将は、
「『山本栄』司令には、既に同意を得ているので、
特攻を決行するかは、『玉井浅一』中佐に一任する。」と言いました。
そして、『玉井浅一』中佐は、
飛行隊長『指宿正信』大尉、『横山岳夫』大尉と相談した結果、
体当たり攻撃を決意し、『大西瀧治郎』中将に、
特攻を行う事を報告しました。
その時、『玉井浅一』中佐は、
「特攻隊の編成は航空隊側に、一任して欲しい。」と要望したそうです。
そして、
神風特攻隊における指揮官の選定の時、
『猪口力平』航艦首席参謀が、
「優秀な海軍兵学校出身者を指揮官に!」と言ったので、
『玉井浅一』中佐は、色々と考え、人選をしました。
当初、指揮官は、第306飛行隊長で、
総撃墜数は計72機の撃墜王として有名な
『菅野直』を考えていました。
ちなみに、
『菅野直』の機体の黄色のストライプ模様から、
米軍パイロット達の間では、
『イエローファイター』と呼ばれ、怖れられたそうです。
しかし、
機材受領のため、日本本土に赴き不在でした。
そのため、『玉井浅一』中佐は、別の人物はと考えている時、
張り切って戦地にやって来た、ある人物を思い出しました。
そして、『菅野直』と同期の愛媛県出身の『関行男』大尉(23歳)が、
部屋で休んでいると、士官室に呼ばれました。

『関行男』大尉は、
当時、難関中の難関とされた海軍兵学校と
陸軍士官学校に双方に合格していた秀才でした。
『関行男』大尉が、士官室に行ってみると、
そこには、『猪口力平』参謀、『玉井浅一』副官などの上層部がいました。
『玉井浅一』副官は、目の前にある椅子を勧め、
みずから立ってその横に座りました。
そして、『猪口力平』参謀は、
「君は、まだ独身だったな?」と『関行男』大尉に問いかけました。
すると、『関行男』大尉は、「いえ、結婚しております。」と答えました。
そして、『大西瀧治郎』中将が、特攻作戦の顛末を話し、
「ついてはこの攻撃隊の指揮官として、
貴様に白羽の矢を立てたが、やってくれるな?」と言いました。
『猪口力平一』航艦首席参謀は、
神風特攻を美化、正当化するために書いた戦後の手記で、
『関行男』大尉は、唇を結んで何の返事もしない。
両肘を机の上につき、長髪の頭を両手でささえて、
目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。
数秒後に、髪をかき上げ、静かに頭を持ち上げて、
「ぜひ、私にやらせて下さい。」と言ったと書いています。
しかし戦後、『玉井浅一』副官は、
『猪口力平一』航艦首席参謀の手記は、
実際は違っていたと記録しています。
実は、『関行男』大尉は、じっと考え込み、即答を避け、
「一晩考えさせて下さい。」と言ったそうです。
そして、翌朝、「引き受けます。」と答えたそうです。
『関行男』大尉は、
特攻隊「敷島隊」の隊長の指名を受けた後、
自室へ戻って遺書を書いたそうです。
遺書
【幼時より御苦労ばかりおかけし、
親不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、
身を以て君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親(妻の実家)に於かれましては、
本当に心から可愛がっていただき、
その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、
君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に
満里子殿 (妻)
何もしてやる事も出来ず
散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも
武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ
御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す】
そして、
特攻攻撃の命令を受けた『関行男』大尉は、
海軍報道班員『小野田政』に、
「僕は、体当たりしなくても敵空母に、爆弾を命中させる自信がある。
僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだ。
僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで、
行くんじゃないよ。
妻を護るために行くんだ。
最愛の者のために死ぬ。
どうだ、素晴らしいだろう!
僕は、23年の短い生涯だったが、
とにかく幸福だった。
しかし、若い搭乗員たちは、恋人もいるのもいるだろうし、
芸者遊びもしなければ、
女性の事も知らないで死んでいくのもいるだろう‥‥。」と言いました。
ちなみに、
『関行男』大尉は、妻『関満里子』に一目ぼれだったそうです。
そして、「神風特別攻撃隊」の隊員24人が選出されました。
そして、1944年10月25日、
『関行男』大尉が、アメリカ海軍の護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、
特攻戦死すると、
連合艦隊司令長官『豊田副武』大将は、
『関行男』大尉を特攻第一号と公認しました。

護衛空母「セント・ロー」の乗組員889人中、
143人が死亡または行方不明だったそうです。
そして、『関行男』大尉は、
「敷島隊五軍神」の1人として顕彰されました。
ちなみに、特攻により死亡した事で、
2階級特進で最終階級は、海軍中佐となりました。
ちなみに、
戦果として発表されたのは、
「空母1隻、撃沈。空母1隻、撃破。
巡洋艦1隻、撃沈。」でしたが、
実は、空母と言っても、
一般的に想像する所の頑丈な正規の空母ではなく、
商船を改装した船体の弱い空母でしたが、
細かい説明が無かったので、
正規の空母を、特攻機が1機で、撃沈が出来ると、
日本人全体が、誤信するようになりました。
ちなみに、
1944年10月21日に、「神風特別攻撃隊」は、初出撃したのですが、
悪天候のため目標を発見することが出来ず、帰還したそうです。
その時、
法政大学出身の『久納好孚』中尉は,未帰還でしたが、
戦果が無いので、特攻第一号とは認められませんでした。
戦時中は、『関行男』中佐は、
ラジオ、新聞、週刊誌などは特集が組まれ、
軍神として軍国主義の宣伝材料に使われ、
父親は早くに亡くなっていましたが、
母『関サカエ』は、軍神の母として、もてはやされたそうです。

しかし、
敗戦後、マスコミにより、取り扱い方が一転し、
祖国のために散華した特攻隊員を、戦犯扱いにしたので、
人々から村八分のような扱いを受け、家に石を投げ込まれたり、
『関行男』中佐の墓を建てることさえ許されず、
また、国からの扶助などが行われなかったため、
遺族の生活は苦しかったそうです。
そのため、
3年以上、遺族は知人宅の物置き部屋に、
隠れて住んでいたそうです。
母『関サカエ』は、妻『関満里子』に、
「私は独りで生きていけるから、
あなたは再婚して、新しい人生を歩みなさい。」と励まし、
妻『関満里子』は、医者と再婚したそうです。
母『関サカエ』は、行商で細々と暮らした後、
学校用務員して雇われましたが、
用務員室で突然死したそうです。
「せめて行男の墓を」というのが、
最後の言葉だったそうです。
その後、『関行男』中佐のお墓は、
愛媛県西条市の楢本神社に、建立されたそうです。
ちなみに、
境内には神風特攻隊記念館もありますが、
来館する人が少ないので、
通常は、閉館していますが、
運が良ければ見学する事が出来ます。(続く)
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