恵方巻と海苔とお茶の話(4)
- 2018/02/20
- 05:05
キャッチフレーズの「上から読んでも山本山。
下から読んでも山本山」の『山本山』が有名ですが、
『山本山』は、もともと茶を扱っていた企業で、
茶も海苔も湿気に弱い製品であることから
製品の湿度管理のノウハウを両者に応用できるので、
戦後、海苔産業に参入したそうです。
ちなみに、
山本山の創業は1690年、
初代の『山本嘉兵衛』が、京都府から上京し、
日本橋で和紙やお茶、茶器類等を扱う
「鍵屋」を開業したことに始まります。
ちなみに、『山本嘉兵衛』という名は、
歴代の当主に受け継がれているそうです。
4代目『山本嘉兵衛』の時に、
永谷園の創業者『永谷嘉男』の先祖『永谷宗円』と出会い、
大きく飛躍しました。
当時飲まれていた煎茶は、
日干しで乾かした茶色い黒茶で、
味も良くありませんでした。
1738年、『永谷宗円』は、15年かけて、
日本煎茶の基礎である「青製煎茶製法」を発明し、
お湯で茶葉を蒸した後に、
焙炉と呼ばれる茶葉を乾燥させるための箱の上で、
茶葉を手揉することにより、
茶色だったお茶の色を、美しい黄緑色に変え、
適度の渋み、苦みに、旨味、甘味に優れた、
高品質の煎茶を開発しました。
『永谷宗円』は、
新しく開発した煎茶の販路を求めて、
上京しましたが、
従来と全く違うこの煎茶の価値を、
評価してくれる茶商がいなく、
誰も相手にしてくれませんでした。
そして、最後に訪れたのが、
4代目『山本嘉兵衛』の所でした。
4代目『山本嘉兵衛』は、
『永谷宗円』の新しく開発した煎茶を一口飲むと、
その味に感動し、売れると確信しました。
そして、
4代目『山本嘉兵衛』は、
小判3枚(約20万円)で買い取り、
その後の購入の約束もしました。
4代目『山本嘉兵衛』は、
煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、
全国で圧倒的な人気を博し、
莫大な利益を挙げたそうです。
そして、山本家は、永谷家にお礼として、
毎年小判25両(約250万円)を、
1875年まで贈り続けたそうです。
1835年、
6代目『山本嘉兵衛』が、
宇治小倉郷の『木下吉左衛門』の所に、
製造に立ち会うために訪れた時、
製茶中の茶葉を露のように丸く焙ることを思いついて、
やってみたところ甘露のような味がしました。
これが、高級茶葉「玉露」が出来た瞬間でした。
ちなみに、
現在は、「玉露」は、棒状に焙っていますが、
これは明治初期に、
宇治の製茶業者の『辻利右衛門』が改良し、
その方法を広めていったたそうです。
ちなみに、煎茶も玉露も、
同じお茶の木からつくられています。
煎茶と玉露の違いは、その栽培方法です。
煎茶は、新芽から摘み取りまで日光に当てるそうです。
日光に当たって育った煎茶の茶葉は、
澄みとおった緑色をしています。
茶葉を日光に当てて栽培すると、
光合成によってアミノ酸の一種「テアニン」が、
「カテキン」に変化します。
「カテキン」は、渋みのもととなる成分なので、
煎茶は甘みと渋みの調和のとれた、
すっきりした味わいになるのです。
玉露は、被覆栽培と言われている方法で、つくられます。
摘み取る約20日前から、
ワラやヨシズなどで茶園を覆い、日光を遮るそうです。
茶葉は、深い緑色をしています。
日光を当てずに栽培すると、「カテキン」が増えないので、
旨みと深いコクのある味わいになるそうです。
また玉露は、独特の香り『覆い香』が特徴です。
ちなみに、
1週間程度、被覆栽培したものは、かぶせ茶と言うそうです。
かぶせ茶は、煎茶と玉露の中間の特徴を持つそうです。
徳川時代から、茶の輸送保存は、
茶つぼが使われていましたが、
『辻利右衛門』が、防湿と運搬・取扱いに優れた、
木の箱の内側にブリキをはりつけた缶櫃を発明し、
現在は、全国の茶商がこれを利用しているそうです。
ちなみに、山本山では、
1947年に、9代目『山本嘉兵衛』が、
海苔の販売を始めたそうです。
ちなみに、先祖が治めていた猫尾城に、
1406年に、『明』からお茶の種子を持ち帰ってきた、
出羽(現在の秋田県)出身の『栄林周瑞禅師(栄林周瑞)』が来て、
出来たのが、八女茶です。
詳しくは、動物病院HPにあります。
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