恵方巻と海苔とお茶の話(2)
- 2018/02/06
- 05:05
海苔が記録されたのが、
大宝律令に海苔が税金として、
徴収されたという事なので、
大宝律令が施行されたのが、
702年、2月6日なので、
2月6日は、「海苔の日」だそうです。
日本人は、大昔から生海苔を食べていました。
そのため、
日本人の腸には、
海草に含まれる多糖類を分解できる
特有の細菌「Bacteroides plebeius」がいるそうです。
「Bacteroides plebeius」は、
大昔から生海苔を食べていた日本人の排泄物からしか、
見つかっていないそうです。
ただ、
外国人が消化できないのは生海苔だけで、
焼き海苔にすれば消化できるそうです。
ちなみに、
世界中で一番の海苔消費国は、
日本ではなく、韓国だそうです。
韓国海苔は、焼き海苔です。
ただ、
韓国で商品として流通していた海苔は、
ほとんどが日本品種でしたが、
2012年、韓国で開発された品種が出来たそうです。
海苔の語源は、
ぬるぬるするという意味のヌラから来ているそうです。
710年の平城京には、
海草類を売る「にぎめだな(和布店)」、
海苔や昆布を佃煮のように加工したものを売る
「もはだな(藻葉店)」という店があったそうです。
その時は、「紫菜」と書いて、
のりと呼んでいたそうです。
その昔、海苔は、天然のものを採るだけでしたが、
江戸時代になると養殖技術が確立しました。
それには、
5代将軍『徳川綱吉』が発布した
動物愛護法の「生類憐れみの令」が、
関係しています。
「生類憐れみの令」により、
1692年に、浅草近辺の漁業が禁止されました。
そのため、
浅草の漁師達は、
船を係留できる川がある
東京都大田区大森に移住しました。
その時、
『野口六郎左衛門』が、川に打った杭に、
多くの海苔が付く事に気が付き、
浅草の地場産業であった和紙の製紙技術を用いて、
海苔を細かく刻んで紙のように「すいて」作る製法で、
海苔を板状に加工し、
そして、現在みられる板海苔が、完成しました。
そして、大森に、大森海苔問屋街が、出来たそうです。
これを、故郷の浅草の商人に販売を依頼した事で、
浅草海苔の名前が付いたそうです。
ただし、
海苔の生態がわからなかったので、
単に経験則のみで、養殖していたので、
その不安定な生産高から、
「運草」と呼ばれていたそうです。
海苔は、夏の間、見られませんが、
その期間の生態と、海苔の種子、増やし方が不明でした。(続く)
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