『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(3)
- 2018/01/05
- 05:05
若年の頃、異様な衣服や刀を纏い、
傍若無人な振る舞いをしていたので、
そのままにすると、
幕府が、譴責を加えると通達がありました。
そのため、
『徳川頼房』の守役『中山信吉』が、
一命を懸けて、諌言したので、
真面目になったそうです。
その父の遺伝か、『徳川光圀』は、
若い時は、やんちゃだったそうです。
例えば、
処刑された罪人の重い生首を、引きずりまわしたり、
洪水直後の墨田川を泳いだり、
ビロードの襟をつけた派手な着物を着たり、
馬屋へも気軽に入って、
草履取と野卑な世間話をし、
兄弟に「色好み」の事を話をしたり、
『池波正太郎』の「鬼平犯科帳」の
主人公『長谷川平蔵宣以』が若い時、
無頼漢の頭となり、
放蕩三昧の日々を送っていたのと同じ様に、
わがまま放題をしていたそうです。
そのため、父『徳川頼房』は、
自分の若い頃の事は、棚に上げて、
『徳川光圀』に、日ごろの行動に対して、
厳しい注意を与えたりしたのですが、
耳を傾けず、蛮行を繰り返したそうです。
しかし、『徳川光圀』は、
18歳の時に、『伯夷』と『叔斉』の話に感銘を受け、
それまでの生活態度を改め、
勉学に励むようになり、
兄『松平頼重』を差し置いて、
水戸藩を継いだことを気にかけるようになり、
驚くほど真面目になったそうです。
そして、『徳川光圀』は、
兄『松平頼重』の嫡子を自分の世子とするために、
自分の子供が出来た時、
父『徳川頼房』と同じように、
男児であれば死産を命じていましたが、
秘かに、
『伊藤友玄』夫妻が自宅で出産させ、
『松平頼常』が生まれました。
すると、それを知った兄『松平頼重』が、
高松に引き取って、養子にしたそうです。
そして、『徳川光圀』は、
自分の子もいましたが、
兄の子に、水戸藩の家督相続させるため、
兄『松平頼重』の長男『徳川綱方』を養子にして、
嫡子として育てましたが、病死したそうです。
そのため、
兄『松平頼重』の次男『徳川綱条』を養子としました。
そして、『徳川光圀』が63歳で隠居した後、
『徳川綱条』は、第三代の藩主となったそうです。
ちなみに、
ややこしいのですが、
『徳川光圀』の実子『松平頼常』は、
『松平頼重』が隠居した後、
讃岐高松藩の藩主となったそうです。
そして、『松平頼常』が隠居した時、
『松平頼重』の孫『松平頼豊』を養子に迎え、
家督を譲ったそうです。
その後も、両藩はそれぞれから藩主を迎えており、
深い関係が続いたそうです。
水戸徳川家の嫡子問題が、
ややこしくなったのは、
将軍『徳川家光』に、
なかなか子供が出来なかったのですが、
実は、ある事情がありました。(続く)
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