『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(2)
- 2018/01/01
- 05:05
尾張と紀州の嫡男が生まれた後の、
1628年に生まれた3男『徳川光圀』を、
長男を差し置いて、嫡男としたそうです。
何故、『徳川光圀』が、
嫡男とされたのかと言うと、
別段、優秀だったからと言うのでは、
ありませんでした。
1632年に、
『徳川光圀』を預かる『三木之次』が、
『徳川頼房』に、
「『長丸(千代松)(徳川光圀)』は、
殿(『徳川頼房』)の子なので、
認知して下さい。」と願い出たそうです。
実は、『徳川頼房』は、
水子にしたと思い込んでいたので、
『松平頼重』、『徳川光圀』の2人の存在を、
知らなかったそうです。
武家諸法度では、実子であっても、
勝手に妾腹の子を嫡子にしてはダメで、
幕府に届ける事になっていました。
そして、届け出る前には、
父子の対面をし、
認知をした上で世継ぎ候補とし、
老中の審議を受け、
更に幕府の使者が面接を行い、
その報告を受け将軍が、
嫡子を認める決まりになっていました。
三木家の反対勢力が、動きを封印するように、
幕府に働きかけ、お家騒動になりそうになったので、
その昔、
『徳川頼房』の守役で、
『徳川頼房』の若い頃の蛮行を諫めた
水戸藩家老『中山信吉』が、
急いで江戸に行きました。
そして、近日中に、
江戸で、三木家が預かっている『徳川光圀』が、
『徳川頼房』の実子認知に向けて、
対面する事が決まりました。
すると、京で、『松平頼重』を預かっていた滋野井家も、
慌てて『松平頼重』を、江戸に呼び寄せたそうです。
そして、1632年に、『松平頼重』と『徳川光圀』が、
水戸徳川家の『徳川頼房』に認知されました。
そして、将軍『徳川家光』の裁定で、
『徳川光圀』が、水戸徳川家の世継ぎに決まりました。
何故なら、
『松平頼重』は、京都から来たので、
江戸に住んでいた『徳川光圀』より、
『徳川頼房』との対面が、
遅れたので、世子候補から外れたそうです。
そして、水戸徳川家では、
『松平頼重』は、次男扱いとなったそうです。
その後、『松平頼重』は、
16万石の讃岐高松藩が与えられました。
それは、
尾張徳川家の公称62万石、紀伊徳川家の公称56万石、
水戸徳川家の公称35万石ですが、
他の徳川家の藩では、
もっと少ない所もあったので、
16万石は、破格の扱いでした。
これは、将軍『徳川家光』が、
本来長男でありながら水戸藩主になれなかった
『松平頼重』を不憫に思ったからとも言われています。 (続く)
- 関連記事
-
- 『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(1)
- 『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(2)
- 『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(3)
- 『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(4)
- 『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(5)