『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(1)
- 2017/12/31
- 05:05
水戸藩の第2代藩主ですが、
水戸徳川家の初代『徳川頼房』の三男でした。
『徳川光圀』の母は、
『谷重則』の娘『久子(お久)(久昌院)』ですが、
正妻でもなく、正式な側室ではなかったそうです。
『お久』の母親が、大奥女中を務めていたので、
一緒に連れられて、城に出入りするうちに、
『徳川頼房』に気に入られて、
『徳川光圀』の兄『松平頼重』を懐妊しました。
当時、
水戸徳川家では、
正式な側室『お勝(円理院)(佐々木勝)(圓理院)』と、
『徳川頼房』の乳母『三木武佐』が、
激しい権力抗争をしていたそうです。
正式な側室『お勝』は、他の側室の子を、
堕胎するよう『徳川頼房』に迫まったそうです。
正式な側室『『お勝』に頭が上がらない『徳川頼房』は、
『お久』に、堕胎を命じたそうです。
そのため、『お久』は、
『徳川頼房』の乳母『三木武佐』と談した結果、
江戸の三木家の屋敷で、
密かに『松平頼重』を生ませて、
三木家の長女の嫁ぎ先の
公家の大納言『滋野井大納言季吉』の子として、
引き取ってもらう事にしたそうです。
そして、『松平頼重』は、
京都の天龍寺慈済院で、育てられ、
『洞叔寿仙』のもとで、学問を学んだそうです。
そして、その後、出家する事が決まっていました。
『徳川光圀』の時も、同様に堕胎の命令が出されましたが、
同じ様に三木邸で生まれ、
『三木之次』、『三木武佐』夫妻の子として、
江戸で、育てられたそうです。
『お久』は、5人出産しましたが、他の弟や妹には、
堕胎命令は、なかったそうです。
水戸徳川家の嫡男を誰にするかと言うのは、
水戸徳川家というひとつの家だけの問題では、
なかったそうです。
1622年に、『松平頼重』が誕生した時点では、
将軍『徳川家光』に男子がなかった上、
「将軍家に後嗣が絶えた時は、
尾張徳川家か紀州徳川家から養子を出す。
それでもいないなら、水戸家から。」と決まっていて、
徳川御三家では、家柄から言うと、
水戸徳川家より、
尾張徳川家、紀州徳川家の方が、
上でしたが、
男子が生まれていませんでした。
そのため、
徳川御三家で、
最下位の水戸徳川家に嫡男が生まれてしまうと、
それはただちに、"将軍継承権第一位"に、
なる事を意味しているので、
『松平頼重』を水戸徳川家の嫡男にするのは、
他家に対して、憚られました。
1625年、尾張徳川家嫡男『徳川光友』、
1627年、紀州徳川家嫡男『徳川光貞』が生まれた後に、
水戸家で、動きがありました。(続く)
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