昔話(151)-高峰譲吉(20)-日米の懸け橋(3)

無理がたたったのか、
『高峰譲吉』が、体調を崩したので、
静養することにしました。

すると、そこへ『渋沢栄一』が、
お見舞いに来ました。

『高峰譲吉』は、

「アメリカに渡って30年、
せめて老後は、
日本の風景に抱かれて暮らしたい。」と言うと、

『渋沢栄一』は、涙を流しながら、

「君の気持は、痛いほど分かる。

しかし、
日本は、危機的な状況下にあり、
日米関係改善は、日本にとって、
最大課題となっています。

でも、日米関係改善は、
まだ、君の学問的事業の発展ほどには、
進んでいないのが、実情です。

君が、アメリカにいる事により、
君の業績を知っているアメリカ人が、
日本人の評価を高める事になり、
日米関係改善に、繋がると思うので、

望むところは、日本のために、
後10年、アメリカで活躍して下さい。」と言ったそうです。

それを聞くと、『高峰譲吉』は、
ただ黙って頷きました。

そして、『高峰譲吉』は、小康状態となったので、
「日本の使節団が、
ワシントンに来ているので、行くけれど、

後の事は、
よろしくお願いします。」と妻『キャロライン』に言って、
ワシントンに向かいました。

そして、日本の使節団を、
米政府高官や政財界の有力者に紹介して回りました。

その1ヶ月、『高峰譲吉』は、

「後10年・・・」と言って、突然倒れました。

そして、そのまま意識を戻すことなく、
1922年7月22日、68年の生涯を閉じました。

そして、
ニューヨーク「セント・パトリック教会」で行われた
『高峰譲吉』の葬式には、
日米600名もの人々が集まったそうです。

その時、
『高峰譲吉』の妻『キャロライン』夫人が、
日本人の会葬者たちに、
「ジョウキチが愛してやまなかった日本の歌…
「君が代」で送って下さい。」と言ったそうです。

そして、「君が代」が、大合唱され、
『高峰譲吉』は、天に送られました。

『高峰譲吉』が埋葬されている
「ニューヨーク・ウッドローン墓地」の案内には、

「1896年にデンプン分解酵素を開発した、
近代バイオテクノロジーの父。

1900年にアドレナリンを世界で初めて分離した。

1912年にはワシントンD.C.の河畔を、
美化している有名な桜の木を寄贈した。」と書かれています。

ちなみに、ニューヨークで有名な「サクラパーク」は、
『高峰譲吉』と『高峰譲吉』が会長をつとめていた「日本クラブ」が、
桜を寄贈したそうです。

ちなみに、『高峰譲吉』の死後、
『キャロライン』夫人は、23歳年下の牧場主と再婚し、
『高峰譲吉』の孫たちとも一緒に、30年以上生活し、
死後は、『高峰譲吉』と同じ墓に入ったそうです。(続く)
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