記事一覧

高峰譲吉(20)-日米の懸け橋(3)

無理がたたったのか、
『高峰譲吉』が、体調を崩したので、
静養することにしました。

すると、そこへ『渋沢栄一』が、
お見舞いに来ました。

『高峰譲吉』は、

「アメリカに渡って30年、
せめて老後は、
日本の風景に抱かれて暮らしたい。」と言うと、

『渋沢栄一』は、涙を流しながら、

「君の気持は、痛いほど分かる。

しかし、
日本は、危機的な状況下にあり、
日米関係改善は、日本にとって、
最大課題となっています。

でも、日米関係改善は、
まだ、君の学問的事業の発展ほどには、
進んでいないのが、実情です。

君が、アメリカにいる事により、
君の業績を知っているアメリカ人が、
日本人の評価を高める事になり、
日米関係改善に、繋がると思うので、

望むところは、日本のために、
後10年、アメリカで活躍して下さい。」と言ったそうです。

それを聞くと、『高峰譲吉』は、
ただ黙って頷きました。

そして、『高峰譲吉』は、小康状態となったので、
「日本の使節団が、
ワシントンに来ているので、行くけれど、

後の事は、
よろしくお願いします。」と妻『キャロライン』に言って、
ワシントンに向かいました。

そして、日本の使節団を、
米政府高官や政財界の有力者に紹介して回りました。

その1ヶ月、『高峰譲吉』は、

「後10年・・・」と言って、突然倒れました。

そして、そのまま意識を戻すことなく、
1922年7月22日、68年の生涯を閉じました。

そして、
ニューヨーク「セント・パトリック教会」で行われた
『高峰譲吉』の葬式には、
日米600名もの人々が集まったそうです。

その時、
『高峰譲吉』の妻『キャロライン』夫人が、
日本人の会葬者たちに、
「ジョウキチが愛してやまなかった日本の歌…
「君が代」で送って下さい。」と言ったそうです。

そして、「君が代」が、大合唱され、
『高峰譲吉』は、天に送られました。

『高峰譲吉』が埋葬されている
「ニューヨーク・ウッドローン墓地」の案内には、

「1896年にデンプン分解酵素を開発した、
近代バイオテクノロジーの父。

1900年にアドレナリンを世界で初めて分離した。

1912年にはワシントンD.C.の河畔を、
美化している有名な桜の木を寄贈した。」と書かれています。

ちなみに、ニューヨークで有名な「サクラパーク」は、
『高峰譲吉』と『高峰譲吉』が会長をつとめていた「日本クラブ」が、
桜を寄贈したそうです。

ちなみに、『高峰譲吉』の死後、
『キャロライン』夫人は、23歳年下の牧場主と再婚し、
『高峰譲吉』の孫たちとも一緒に、30年以上生活し、
死後は、『高峰譲吉』と同じ墓に入ったそうです。(続く)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事

プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館・動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北・沖縄の
動物病院で勤務しました。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
筆記試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、
時には、歴史の時は、
現地調査までしていたので、

回答欄のスペースでは、不足したので、
裏まで、時には2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、自分だけ白紙が、
2枚配られていました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

知らせてもらえれば、
嬉しいです。

検索フォーム