昔話(150)-高峰譲吉(19)-日米の懸け橋(2)

『金子堅太郎』は、
『渋沢栄一』から、アメリカに行ったら、
『高峰譲吉』に、会うように勧められていたので、
訪ねました。

その時、『金子堅太郎』は、

「日米関係が良くなるように、
日本の良いところを、
周知のほど、よろしくお願いします。」とお願いしました。

『高峰譲吉』は、

「ロシアは、アメリカの独立戦争や南北戦争で、
アメリカを援助したので、アメリカ国民の8割は、
ロシアに好意を持っています。

日本には、関心が無い人が多いので、

それを、打開するのは、難しいけれど、
祖国のために、尽力させて頂きます。」と
『金子堅太郎』に約束しました。

その後、『高峰譲吉』は、
日本への理解を深めてもらおうと、
日本の良いところを、
会った人々に、紹介しました。

そして、日露戦争開戦の18日後、
1904年2月28日の
「ニューヨーク・プレス」紙の日曜版で、

『高峰譲吉』は、より多くのアメリカ人に、
日本への理解を深めてもらうため、
「日本における諸科学の驚くべき発達」との見出しで、

日本人は、礼儀を重んじ、平和を愛している事、
明治維新後、わずか30余年で近代医学を発展させ、
『北里柴三郎』による血清療法の発見という
世界的な貢献があった事を紹介しました。

ちなみに、
『高峰譲吉』は、『北里柴三郎』博士とも交流があり、
1904年、セントルイス万博が開催され、
『北里柴三郎』博士と『塩原又策』がアメリカに来た時、
3人で一緒に、ミシガン湖上の ヨットで、
クルージングを楽しみました。

その時、『塩原又策』は、『北里柴三郎』博士と共に、
「パーク・デイビス」社を訪問しました。

「パーク・デイビス」社は、
血清療法の世界的権威であった『北里柴三郎』博士を、
顧問に迎えたいと望んでいたので、『塩原又策』は、信頼を獲得し、
三共商店とパーク・デービス社との提携関係は一段と深まったそうです。

そして、『北里柴三郎』博士は、
パーク・デービス社顧問になったそうです。

そして、『高峰譲吉』は、紋付袴という和服の礼装で、
精力的に、講演で全米を飛び回ったそうです。

1905年、日本人同士の親睦と情報交換、
日米の交流と相互理解と日米間の親睦のため、
ニューヨークで、『高峰譲吉』が会長となって、
「日本クラブ」をつくり、最善をつくしました。

しかし、(続く)
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