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記事一覧

『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(19)

ロサンゼルスオリンピックの時、各国の馬術選手は、リヴィエラ・カントリー・クラブで練習したのですが、その時、『西竹一(バロン西)』男爵に、非常に可愛がられた、『サイ・バートレット』という19歳のアメリカ人がいました。その後、第二次世界大戦中、空軍大佐となっていた『サイ・バートレット』は、日本爆撃の命令を受けました。その時、『西竹一(バロン西)』男爵の祖国の日本を、爆撃することに対して、非常に悲しみま...

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硫黄島最後の二人-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(18)

ちなみに、1945年8月15日に、終戦していましたが、硫黄島では、日本が敗戦した事を知らず、元海軍所属の日本兵の24歳の『山蔭光福』兵長と、年上ですが、階級は下になる、34歳の『松戸利喜夫』上等水兵の2人は、洞穴などに隠れて、暮らしてきたそうです。ある時、島に駐在しているアメリカ兵が捨てた、雑誌『ライフ』を拾ったところ、日本各地や東京の不忍池などで、アメリカ兵と日本人女性が、一緒にボートを漕いでい...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(17)

その後、硫黄島では、生き残った日本兵が地下陣地に潜伏していたので、アメリカ軍は、硫黄島の戦いは終わったと言って、投降を促したそうです。投降する日本兵も、いましたが、投降を拒否する日本兵も、沢山いたそうです。そのため、アメリカ軍は、日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋めたり、ガソリンを流し込んで、火を放ったりして、一つ一つ潰していったそうです。 そして、アメリカ軍は、ロス五輪金メダリストだっ...

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日本本土空襲-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(16)

そして、1944年11月29日より、B29爆撃機が、頻繁に東京に襲来し、106回の空襲が行われましたが、最初は、小規模で行われていたのですが、硫黄島の戦いが、終盤になり、硫黄島の空港が、アメリカに占領されてから、日本が心配していた通り、硫黄島の空港から、沢山の爆撃機や護衛機が飛び立ち、空爆は、大規模になって、特に、1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日、5月25日-26日は、超大規...

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硫黄島の戦い-『栗林忠道』(4)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(15)

そして、『栗林忠道』の要請により、硫黄島に来た、『千田貞季』の混成第2旅団が担当した玉名山は、アメリカ軍の硫黄島上陸部隊の矢面にたちました。ちなみに、硫黄島の戦いの中で、玉名山攻略戦が、一番の激戦だったと言われています。玉名山攻略戦では、『クリフトン・ケーツ』海兵少将が率いる、米海兵隊第4海兵師団(師団長)に、8日間で、約2880人余りの死者が出たそうです。しかし、アメリカ海兵隊が、次から次に来る...

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硫黄島の戦い-『栗林忠道』(3)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(16)

硫黄島の最高指揮官『栗林忠道』は、優れた軍人でしたが、同時に良き家庭人でした。硫黄島に行く前、次女の『栗林たか子』9歳が、大泣きしていたそうです。そのため、『栗林忠道』は、硫黄島着任後に送った手紙には、「お父さんは、お家に帰って、お母さん(妻『栗林義井』)とたこちゃん(『栗林たか子』)を連れて、町を歩いている夢などを時々見ますが、それは、出来ない事です。お父さんは、たこちゃんが大きくなって、お母さ...

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硫黄島の戦い-『栗林忠道』(2)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(15)

1945年2月16日、計画していた地下トンネルの4割まで作ったところで、海上に、アメリカ軍艦が姿を現したそうです。そして、6隻の戦艦、5隻の巡洋艦による艦砲射撃、多数のロケット弾が撃ち込まれ、その上、航空機攻撃による爆撃が、3日間、24時間絶え間なく、続けられました。そして、アメリカ海兵隊は、日本軍の抵抗を受ける事なく、1945年2月19日に、アメリカ海兵隊は、上陸しました。そして、静かな海岸で、...

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硫黄島の戦い-『栗林忠道』(1)-『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(14)

硫黄島のアメリカ軍の上陸部隊、第56任務部隊を指揮し、上陸作戦のエキスパートとして、「水陸両用戦の父」と呼ばれ、そして、荒っぽい性格で、すぐに怒鳴ることから、「マッド(狂人)・スミス」、「ハウリン・マッド(わめき散らす狂人」との異名を持つ、『ホーランド・マクテイラー・スミス』は、硫黄島の攻略前に、「硫黄島の占領は、5日で終わる。死傷は、1万5千人を覚悟している。」と、豪語していましたが、実際の戦い...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(13)

『西竹一(バロン西)』男爵は、戦地の硫黄島に行く前に、馬事公苑にいた年老いた『ウラヌス』に、会いに行きました。『ウラヌス』は、『西竹一(バロン西)』男爵の足音を聞くと、脚を踏みならして、喜びを表現し、首や鼻面をこすりつけて、愛咬してきたそうです。ちなみに、自分が動物園勤務の時、チンパンジーは、麻袋の毛布で寝ていたので、チンパンジーの『ボンタ』や『ノリコ』が、寝る時に、麻袋を渡したりしたり、起きる時...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(12)

1944年6月20日、『西竹一(バロン西)』男爵率いる、陸軍戦車第26連隊が、転進部隊として、釜山港に到着したそうです。そして、行き先を知らされないまま、輸送船「日州丸」に乗り、船上で、『西竹一(バロン西)』男爵は、硫黄島行きの命令書を、受け取りました。そして、輸送船「日州丸」は、硫黄島に向かいました。しかし、1944年7月17日、父島沖で、アメリカの潜水艦「コビア」の攻撃を受け、輸送船「日州丸」...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(11)

1944年、『西竹一(バロン西)』男爵は、陸軍戦車第26連隊の連隊長に任命され、満州北部に行きました。 当時、アメリカは、グアム、サイパンなどマリアナ諸島を、占領しつつあったので、B29爆撃機による、日本の本土全域への直接爆撃が、可能となりました。しかし、B29爆撃機を守るための護衛戦闘機が無かったので、日本軍の迎撃戦闘機に迎撃され、思ったような成果が、上がりませんでした。アメリカ軍に護衛戦闘機が無...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(10)

そして、『西竹一(バロン西)』男爵は、1939年から1940年まで、北海道の本別町の陸軍省軍馬補充部十勝支部で、軍馬育成を、担当したそうです。陸軍省軍馬補充部十勝支部は、約2万ヘクタールの敷地があり、馬を2歳で購入し、5歳になるまで育て、旧国鉄仙美里駅から戦場に送ったそうです。陸軍省軍馬補充部十勝支部の予算が十分では、無かったので、『西竹一(バロン西)』男爵は、今まで人に頭を下げた事がなかったのに...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(9)

次のオリンピックは、ナチス体制下のドイツで開かれた、1936年のベルリンオリンピックでした。その時、『西竹一(バロン西)』男爵は、ひどい風邪を引いて、40℃近い高熱がありました。そのため、薬で熱を下げて、参加しました。そして、『西竹一(バロン西)』男爵は、念願だった国産のオス馬『アスコット』と共に、「総合馬術」競技に挑んだ結果、12位でした。『西竹一(バロン西)』男爵は、国産馬でもここまで活躍でき...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(8)

日本人報道関係者は、馬術での日本の優勝は、予想していなかったので、馬術の専属記者は、いませんでした。しかし、たまたま、馬術競技のためではなく、その後に行われる閉会式中継のため、会場にいた日本人報道関係者が、大ニュースとして、日本に伝えました。その時、インタビューを受けた、『西竹一(バロン西)』男爵は、「We Won!(私たち(私と『ウラヌス』)は、勝ちました。)」と、「愛馬『ウラヌス』と共に、勝った事を...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(7)

『ウラヌス』は、第10障害物の前で、止まりました。その瞬間、会場から、どよめきが起こりました。しかし、『西竹一(バロン西)』男爵と『ウラヌス』は、素早く反転し、再び第10障害物に、向かいました。すると、『ウラヌス』は、腰を右にひねり、横木との間に、十分な余裕を残して、第10障害物を飛び越えました。そして、残りの障害物を、問題なくクリアーして、完走しました。減点は、8でした。ゴールインすると、観衆は...

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『西竹一(バロン西)』男爵と愛馬『ウラヌス』(6)

1番は、メキシコの『ボカネグラ』大尉は、障害物を何度も落とし、馬が、障害物の前で何度も止まり、失格しました。 2番は、地元アメリカの『ウォフォード』中尉は、障害物を何度も落とし、転倒し、失格しました。 3番は、『ウラヌス』を、『西竹一(バロン西)』男爵に紹介した『今村安』少佐でしたが、障害物を何度も落とし、落馬して失格しました。 4番は、スウェーデンの『フォン・ローゼン』中尉は、障害物を4個落としま...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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