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記事一覧

糸脈(3)

世界で初めて糸脈をしたのは、『孫悟空』だそうです。その昔、中国の帝が重い病気に罹り、沢山の医師が治療を試みましたが、治らなかったそうです。藁をもつかむことで、中国の帝の診察を請われた『孫悟空』でしたが、身分の低いという理由で、高貴な身分の帝には、直接会う事は出来ませんでした。『孫悟空』は、帝の病気を治療したいと思い、直接会わずに診察する方法を考えました。そして、寝殿近くで三本の金糸を宦官に渡して、...

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糸脈(2)

糸脈で思い出されるのは、979年に生まれた中国の宋の医師『吳夲(保生大帝)』です。伝説によると、『吳夲(保生大帝)』は、通常の診察はもちろん、糸脈も出来て、評判が良かったそうです。宋の『仁宗』の母が病気にかかった時、色々な医師が治療しても治らなかったので、『吳夲(保生大帝)』が呼ばれました。しかし、『仁宗』は、『吳夲(保生大帝)』の糸脈に懐疑的だったので、診察の前に、『吳夲(保生大帝)』を、試す事...

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糸脈(1)

日本で、一番最初に、動物治療をしたと記録があるのは、『大国主神』です。『大国主神』が、大部分の皮膚を剥がれた因幡の白兎に、皮膚の再生医療をしたそうです。ちなみに、現在、獣医領域では、再生医療が最先端で流行です。漫画「JIN仁」では、主人公の医師が、普通に高貴な人と面会していますが、実は、近代以前の日本では、お医者さんの社会的地位は低かったので、高貴な人を診察・治療する時、その体に直接触れることが許さ...

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兵士たちの食事(2)

自衛隊の食事は、食費は、平均で880円で、カロリーは、平均で約3000kcal、航空機搭乗員は、3300kcalだそうです。成人男性に必要なカロリーは、1800-2200kcalなので、国を守るための訓練の激しさが分かります。ちなみに、潜水艦乗務員だと、6時間勤務12時間休憩を繰り返し、ずっと室内なので、昼夜の感覚がずれてくるので、食事は、0時、6時、12時、18時と、6時間毎、1日4回あり、定食などの重めの...

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兵士たちの食事(1)

日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」で、書いたように、兵士には、食事が大切です。『ナポレオン・ボナパルト』は、「軍隊は胃袋で動く。」と言って、軍隊における食糧の供給問題を重視していました。そのため、『ナポレオン・ボナパルト』は、常温で長期間保存ができる食品を、賞金12,000フランで、保存食の開発を民間に公募したそうです。 そして、1804年にフランスの『ニコラ・アペール』が、...

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今の日本には不在の骨太の外交官『重光葵』(3)-『ダグラス・マッカーサー』

翌早朝、外交官『重光葵』は、終戦連絡中央事務局長官『岡崎勝男』と一緒に、連合国総司令部(GHQ)『ダグラス・マッカーサー』のもとを訪れました。そして、外交官『重光葵』は、「占領軍による軍政は、日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する。ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが、日本には政府が存在する。布告の即時取り下げを要求します。」と猛烈に抗議しました。連合国軍最高司令官『ダグラス・マッカーサー...

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今の日本には不在の骨太の外交官『重光葵』(2)-ハワイ

日本で人気の観光地のハワイは、元々は、ハワイ王国という独立国でした。ハワイ王国は、植民地にならず、生き残るため、ハワイに帰化した欧米人を、ハワイ政府の要職に就けて、西欧化を進めていました。そして、1850年、要職についた欧米人の尽力により、外国人による土地の私有が認められるようになりました。そして、予想されていた通り、1862年までにハワイ諸島の約75%の土地が、欧米人の所有する土地になったそうで...

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今の日本には不在の骨太の外交官『重光葵』(1)‐ギブミー・チョコレート

映画やTVなどで、日本の終戦直後、子供達が、「ギブミー・チョコレート」と言って、アメリカ兵に群がって、「ザ・ハーシー・カンパニー(ハーシー)」などのチョコを、もらうというシーンをよく見かけます。勘違いしている人がいますが、これは、アメリカ兵の親切心からではありません。あの「ザ・ハーシー・カンパニー(ハーシー)」のチョコレートの費用は、アメリカの兵隊に対して、良い印象を持ってもらうために、アメリカの要...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(11)

『舩坂弘』さんは、戦記を書いた印税などの私財を投じて、戦いが行われた島々に、次々と慰霊碑を建立し、アンガウル島のあるパラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流を行い、書店経営が忙しかったのですが、慰霊団の引率、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を、毎年欠かさず行ったそうです。『舩坂弘』さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文は、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(10)

『舩坂弘』さんは、戦争での強烈な体験とアメリカの先進性を学んだ事から、日本社会に貢献したいと考え、日本の産業、文化、教育を豊かにする事が大切と考え、東京、渋谷駅ハチ公前の親戚の地所に、一坪の土地を借り、書店を開いたそうです。そして、書店は、大阪の北区にある旭屋書店本店と同じ様に日本で初めて、ビル全体を使用した本のデパート「大盛堂書店 本店」に発展しました。『舩坂弘』さんが、自身の戦争体験を記した『...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(9)

ほふく前進で、飛行場まであと少しという所まで進みました。あと少しで、実行出来ると思って頭を上げた時、そこに例の大男が立っていました。そして、拳銃を突きつけられ、テントに戻されました。『舩坂弘』さんは、覚悟を決めて、「何度でも同じことをやるので、殺せ!」と言いました。すると、大男は、たどたどしい日本語で、「貴方が、歩哨に私の日程を尋ねたと、私に、連絡が来ました。貴方が何かを計画するとしたら、今夜だと...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(8)

ある日の夜中、『舩坂弘』さんは、歩哨を殺して銃を奪おうと思い、歩哨の背後に忍び寄ったところ、突然、背後から別の兵がタックルして来ました。『舩坂弘』さんは、必死に抵抗したのですが、相手は、頑強な大男だったので、ロープでぐるぐる巻きにされ、柱に縛られました。大男は、「crazy(気狂いめ)!」と英語で罵ってから、『舩坂弘』さんに、銃を向けました。『舩坂弘』さんは、「やるべき事はやったので、ここで銃殺される...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(7)

『舩坂弘』さんは、要注意人物として監視されていましたが、瀕死の重傷者と思われていたので、監視が甘かったそうです。そのため、暗闇に紛れて、収容施設を抜け出せたそうです。そして、『舩坂弘』さんは、見つからないように約1kmをほふく前進し、途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、銃弾を7発位、集めて火薬を抜きました。そしてその火薬を導火線にして、弾薬庫に火をつけたそうです。そして、弾薬庫が、爆発を起こす...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(6)

『舩坂弘』さんは、死体置き場に3日間放置されていましたが、突然、息を吹き返しました。医療器具を見て、情をかけられたと勘違いし、医療器具を叩き壊ました。物音を聞いたアメリカ兵は、駆けつけました。すると、『舩坂弘』さんが、死体の中から、出て来たのでアメリカ兵は、あまりの恐怖に、叫び声をあげ、パニックになったそうです。そして、正気を取り戻したアメリカ兵は、蘇った『舩坂弘』さんに、銃口を向けました。すると...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(5)

島には、米軍の歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。その中を『舩坂弘』さんは、夜の暗闇に紛れて、食事もとらず、数日かけて這って行き、米軍の前哨陣地を突破し、米軍の司令部(本部)と思われるテントの近くまで、到達しました。『舩坂弘』さんは、指揮官らが集合する時に突入しようと考え、物陰で待っていると、ジープが続々と乗り付けて来て、指揮官たちが集まり、...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(4)

『舩坂弘』さんは、「負けてたまるか!俺の根性をみせてやる!味方の陣地に行く!」と、近くにあった日章旗で、足を包帯代わりに縛り、足が使えないので、手で這って北西にある洞窟の陣地に行きました。着いた時には、死体が這ってきたと評判でしたが、翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで、回復したそうです。『舩坂弘』さんは、その後も何度となく瀕死の重傷を負いましたが、不思議と翌日には、回復の兆しがあったそう...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(3)

朝になって、襲撃を受けた米軍は、報復のため、艦隊に無線連絡しました。無線連絡を受けた艦隊は、『舩坂弘』さんのいる部隊に対して、一斉にスコールのように、ナパーム弾、砲弾を撃ち込んで来ました。岩石を砕き、黒い煙と土埃を吹き上げて破片が飛び交うので、『舩坂弘』さんたちは、動けなくなったそうです。砲弾が止んで周囲を見渡した『舩坂弘』さんは、地面が変形しているのは当たり前ですが、そこには、少し前まで、冗談を...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(2)

そして、1944年9月、米軍船団が洋上に来て、島に向かって艦砲射撃が行われました。空からはB-24や艦載機が、さかんに爆弾を投下し、銃撃を浴びせてきました。7日には、洋上に敵潜水艦まで出没し、いよいよ事態の切迫を告げました。8日には艦載機による空爆が、いよいよ激しくなりました。12日以降は、艦砲射撃の量は、1日に千数百発という数に達しました。そのため、苦心して造った水際陣地は、ひとたまりもなく破壊...

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不死身の分隊長-『舩坂弘』(1)

以前、ラスプーチンとタフな犬の話(4)で、タフな犬「ドーシャ(dosha)」の話をしましたが、今回は、日本人のタフな人の話をします。黄色人種が嫌いだった『フランクリン・ルーズベルト』は、特攻隊や切腹に関して、「日本人の脳には欠陥があり、死ぬことに苦痛を覚えない特殊な人種である。」と言いました。『フランクリン・ルーズベルト』は、日本人を馬鹿にしているつもりですが、脳には欠陥はないのですが、死を恐れない...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(13)-戦争を避けるための示唆(2)

次に、2つの集団が協力しないと達成できない上位目標を用意するという方略を考えました。研究スタッフが貯水タンクの元栓を秘かに破壊し、キャンプ場の蛇口から水が出なくなるという事態をつくり出したり、食料を買い出しに行く大型トラックを、研究スタッフが車の故障を偽装したり、ぬかるみに、わざと、はまったりしました。子どもたちにしてみれば、キャンプ生活に関わる大事だから、敵だ味方だなどと言っている場合ではないと...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(13)-戦争を避けるための示唆(1)

アメリカのオクラホマ州立大学の認知社会心理学者『ムザファー・シェリフ』を中心とする研究グループが行った「ロバーズ・ケーブ実験」が、国の関係に通じる重要な示唆を、もたらしてくれます。「ロバーズ・ケーブ実験」とは、1954年、オクラホマ州内のロバーズ・ケーブ州立公園で行われたサマーキャンプにおいて約3週間行われた観察研究です。対象となったのは、プロテスタント系の白人中流階級の家庭の子どもで、成績は中程...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(12)

特攻に使用していた零戦は、1942年までは、世界水準を超えた戦闘能力で無敵と言われ、アメリカ軍の戦闘機F4F「ワイルドキャット」では、「零戦とは格闘戦してはいけない。低速時に上昇中の零戦を、追ってはいけない。」と厳命されていました。しかし、アメリカは、航空機生産能力は、日本の約5倍と国力の差があり、日本は、零戦の良い後続機が出来ませんでしたが、アメリカでは、1943年より投入された戦闘機F4F「ワ...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(11)-日本のCIAエージェント

ロッキード事件で有名な『児玉誉士夫』は、死期が近づいた時、「自分は、アメリカの中央情報局(CIA)の対日工作員であった。」と告白しています。『児玉誉士夫』は、戦犯の疑いで逮捕され、1948年釈放された後、CIAに協力するようになったそうです。『児玉誉士夫』は、朝鮮戦争(1950年—1953年)に、ミサイル強化のため、タングステンを必要としていたアメリカに、日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを密輸...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(10)-特攻を推進派『大西瀧治郎』

『大西瀧治郎』中将は、軍需産業強化を担当する軍需省に長年勤務していて、日本の国力を知っていたので、「戦争は続けるべきではない。フィリピンを最後の戦場にして、早期に講和すべきだ。」と考えていました。そして最初、『大西瀧治郎』中将は、特攻は外道と言っていましたが、戦況の悪化により、途中から特攻推進派になり、「俺の作戦指導に対する批判は許さん。反対する者は叩き切る。特攻隊は、国が敗れるときに発する民族の...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(10)-特攻を推進派した人々

特攻は、マリアナ沖海戦の敗北後、検討され始めました。マリアナ沖海戦の敗北後、元帥会議が行われ、『伏見宮博恭王』より、「陸海軍とも、何か特殊な兵器を考えた戦争をしなければならない。戦局がこのように困難になった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し、迅速に使用を要するを要す。」と発言があったそうです。そして、艦船に対する攻撃法を研究したのですが、航空機による通常雷撃が、アメリカ艦隊に対して、...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(3)

1945年2月、幕僚と部隊長、飛行長ら、約80人が出席した連合艦隊主催の「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、連合艦隊方針及び各部隊戦闘部署について」の作戦会議が、開かれました。その時、熟練搭乗員不足、燃料不足、物資不足、飛行機不足に対する対策などが、話し合われ、最終的には、練習機「九十三敷中間練習機」で、特攻する事が決まりました。すると、会議の中では最若輩で末席にいた夜間攻撃専門の芙蓉部隊隊長『美濃部...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(2)

軍令部作戦課は、第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』に、『美濃部正』の夜襲隊を、手伝うように言われたので、人員や機材などに関して、便宜を図りました。『美濃部正』は、使い慣れた「月光」を希望しましたが、すでに生産が中止されて、十分な数が揃わないことが判明しました。次に、新鋭陸上攻撃機「銀河」を希望しましたが、20機ぐらいしかありませんでした。その後、『美濃部正』は、「彗星」が、大量に倉庫にあり、誰も使...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(1)

『美濃部正』少佐が、夜襲戦法を思いついたのは、マラリア治療をしていた時でした。『美濃部正』少佐は、1942年7月より、小松島空分隊長を拝命し、教官として、海軍水上機搭乗員の練習生に、水上機の実戦運用の訓練をしていました。1943年10月より、ソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊の飛行隊長に、着任しましたが、1944年1月、マラリアに感染し、野戦病院に入院しました。そこで、『美濃部正』が、教...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した人々

特攻命令を、拒否し続けた人たちもいます。第100飛行団の航空総監部教育課長『秋山紋次郎』大佐は、「参謀本部の二課(作戦課)が特攻やれとは何事だ。」と特攻には強行に反対したそうです。 第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長『岡嶋清熊』少佐は、特攻には断固反対で、国賊と言われたそうです。陸軍飛行第62戦隊戦隊長『石橋輝志』少佐は、大本営作戦課で第62戦隊を特攻部隊に、編成訓練するよう要請されると、「部下...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-イエローファイター『菅野直』

最初の特攻隊のNo1の候補だった『菅野直』は、第306飛行隊長で、総撃墜数は計72機の撃墜王として有名で、愛機「343-A-15」号機(紫電改)の機体には、敵を、味方機ではなく、自分の方にひきつけるため、機体に黄色のラインが描かれていたので、米軍パイロット達の間では、『イエローファイター』と呼ばれ、怖れられたそうです。ちなみに、訓練生の時、着陸事故の危険から着陸禁止になっていた滑走路に着陸し、機体が...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(8)-遺書(7)靖国神社

神風特別攻撃隊『小川清』海軍中尉(22歳)は、1945年5月11日、南西諸島沖で、「ワレ突入ス」との無線の後、アメリカ空母「バンカー・ヒル」に突入し、大破、炎上し、死者396人、負傷者264人を出しました。特攻により炎上するアメリカ空母「バンカー・ヒル」バンカー・ヒルの乗組員だった『ロバート・ショック』が、「バンカー・ヒル」の処理を行なっている時、炎上せずに残っていた『小川清』の遺品を見つけ、持ち...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
筆記試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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