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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(3)

日本海軍の給糧艦「間宮」は、炭酸ガス、水、シロップを加えれば、簡単に製造出来るラムネを製造する機械が導入されました。そして、次に、饅頭などを作る機械一式が導入され、羊羹など餡子を使った和菓子が製造可能となり、1931年より、パンなどの一般的な食料だけではなく、ラムネ、饅頭、モナカ、ようかん、アイスクリーム、ケーキ、タピオカプリンなどが生産されるようになったそうです。そして、「間宮」が停泊中には、海...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(2)

1924年に、給油艦に使う予定だった予算を流用し、全長145メートル、排水量1万5820トンの日本海軍初の給糧艦「間宮」が、竣工されました。当初は、巨大な冷蔵庫で新鮮な食料品を運ぶ事が、主な任務でした。そのため、巨大な冷蔵庫、冷凍庫設備があり、肉、魚、生野菜など、1万8千人の3週間分の食料が、貯蔵出来たそうです。その上、艦内で豆腐や納豆、こんにゃく、油揚げ、麩やパンなどの加工食品を、製造する施設も...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(7)-補給艦「間宮」(1)

日本軍は、元々、兵部省で一体でしたが、1870年に陸海軍が分離され、1872年に陸軍省、海軍省が設置されました。分離の原因は、薩摩と長州の藩閥争いだったそうです。陸軍は、長州の『大村益次郎』が基礎を築き、その後は、長州の『山県有朋』が引き継ぎました。フランス、ドイツ陸軍を参考に、軍備を拡充しました。海軍は、薩摩藩の『川村純義』と『勝海舟』が基礎を築き、その後、薩摩藩の『西郷従道』、薩摩藩の『山本権...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(6)-撃墜王『坂井三郎』と『水木しげる』

戦時中は、政府は、特攻に関して、志願者が多く、士気が上がっていると、国民には言っていました。しかし、公式認定撃墜数28機(自称撃墜数64機)の撃墜王『坂井三郎』は、戦後、特攻作戦に関して聞かれた時、「特攻で士気があがったと発表していたが、実は大嘘。絶対死ぬという作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった。」と言っています。ちなみに、『坂井三郎』は、上空で優雅にサイダーを飲もうと、機内にサイ...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(5)-最後の特攻『宇垣纏』海軍中将

最後の特攻を行ったのは、プライドが高いと言われている第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将です。以前、第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将が、特攻隊を見送っていた時、特攻隊員から、「本日の攻撃において、爆弾を百%命中させる自信があります。命中させた場合、生還しても、よろしいですか?」と聞かれた時、第五航空艦隊司令官『宇垣纏』海軍中将は、「まかりならぬ。」と即座に大声で答えたそうです。そして、敗戦が明...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(4)

その後、『佐々木友次』伍長は、フィリピンのカンルーバン捕虜収容所で、知り合いの読売新聞の『鈴木英次』記者から、「お前、殺されることになっていたのを知っているか?第四航空軍は、大本営発表で、死んで者が生きていては困るから、第4航空軍司令官『冨永恭次』が銃殺命令を出し、第四飛行団の『猿渡篤孝』大佐が、お前を、秘密裏に殺すために、狙撃隊を準備していたんだぞ。でも、地上勤務の兵隊が怒って、特攻隊の狙撃命令...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(3)

5回目の特攻からもどると、休み時間も無く、6回目の特攻の命令が出ました。『佐々木友次』伍長は、何かの感染症(マラリア)に感染したらしく、熱っぽく、体調が悪かったので、「少し寝て、体力が回復にしてから、特攻させて欲しい。」と言うと、参謀長『猿渡篤孝』は、「絶対にダメだ!寝ている時間など無い!ただちに、どんな船でも良いから、見つけ次第、突っ込め!今度帰ったら承知せんぞ!」と、たいへんな剣幕で、まくした...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(2)

1回目の特攻に出た『佐々木友次』伍長は、レイテ湾を飛行中に敵艦を発見し、高度5千mから急降下し、高度800mから敵艦めがけて爆弾を投下しましたが、爆弾は、少しズレて海面に落ち、少しだけ損傷を与えました。じっとしていると、撃ち落される危険性があるので、すぐに現場を離れました。すると、豪雨に見舞われたので、以前、『岩本益臣』大尉に教えてもらっていた「緊急避難地」のミンダナオ島の田んぼに、着陸したそうで...

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日本を守るために命をかけて戦った人々(4)-9回特攻した『佐々木友次』伍長(1)

天皇陛下が初めて特攻の話を聞かれた時、「そのようにまで、せねばならなかったか。まことに遺憾である。しかし、よくやった。哀悼の情にたえぬ。」と言われたそうです。日本陸軍第1回の特攻隊「万朶隊」に選ばれ、9回特攻出撃して、9回生きて帰ってきた特攻隊員がいました。その、特攻隊員の名前は、当時21歳の『佐々木友次』伍長。陸軍航空隊で最初に結成された特攻隊の「万朶隊」は、敵艦船攻撃のための爆撃訓練を行う優秀...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

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